深夜の放浪者
夜もだいぶ更けてきた頃だろうか。 ユリは布団に入って横になっていた。 今日一日の疲れの所為か、激しい疲労感に襲われよく眠れそうな感覚が、あった。
ギシ…ッ。
足音がした。
少なくとも、寝ている自分のものではない。 …殺気は無いから大丈夫なのだろうが、声を掛けるのを躊躇っている雰囲気を感じた。 スナイパーである以上、彼女は空気に敏感だ。 自分の思い違いではなく、絶対に後ろに誰か立っている…それが誰かは分からないので取り敢えずこっそり、寝返りをうつ感じで身体を動かした。
「…むっ? た、橘殿っ!?」
眠気は地平線の彼方まで飛んで行ってしまった。 それもそのはずだ。 寝ている→気配察知→振り向く→全裸の知人…これで動揺しなかったら感性を疑ってしまうだろう。 咄嗟に眼を手で覆って視界から隠そうとしたが、弓弦の引き締まった裸体がしっかりと脳裏に焼き付いてしまった。 きっと彼女がこの映像を忘れることはないだろう。
「…ゆ、ユリ!? あ、あ、すまん!」
バッと背中を向ける。 きっと知影とフィーナが何かしたのだろう…とこの時点である程度察するのは、例えユリでなくても可能だ。 ユリは視界の“中央に入れないように”注意しながら、近くに置いてあった上着を彼に掛ける。
「すまん…本当に、すまん…? これ、俺の服か…あぁ、知影辺りがここに来た時に置いていったのか。 …どうりで最近服が若干減ったような気がするわけだ」
「…いやそれは、私の服だぞ?」
大嘘である。 弓弦は“アカシックボックス”で下着と装束を取り出して身に付ける。
「…言われてみれば……俺の服だったらこんなに可愛らしい香りはしないか…ほら、返すぞ」
「う、うむ。 私の物だからな。 当然だ…うむ」
受け取ったユリはどこかぎこちない動作でそれを置いた。
「まぁ、良い。 迷惑を掛けたな」
立ち上がって入口へと向かう。
「? どこへ行くのだ?」
「甲板。 今はあの部屋に戻れないからな…」
今部屋に戻ったら確実に食われてしまう。 折角逃げることが出来た以上、せめて今晩は別のところで寝た方が良いのである。
「まさか…甲板で寝るつもりか?」
「あぁ、そのつもりだが?」
「冷えるではないか! 布団で寝た方が良いと私は思うぞ?」
「“シュッツエア”を使えば寒いと感じないからな。 別に良い「待て待て待て!」…どうしたんだ?」
「…そ、その…だな…」
困ったように、装束の裾を掴んで離さないユリを見る。 そして、成る程と言わんばかりに手を打った。
「そうか、確かに…恥ずかしいことではあるな」
「…っ! だ、だが私とゆ、ゆ…っ、橘殿はまだそんな関け「その格好を見たことを忘れてほしいんだな?」…は?」
うんうんと頷くと、しゃがんでユリ…ではなくその姿を申し訳なさそうにチラリと見る。
「…ぬいぐるみ、好きだったんだな。 そんな気はしていたんだが」
「……」
無言で呆れるユリはその胸に、ぬいぐるみを抱いていた。 何かのキャラクターのぬいぐるみだろうか? 丁寧に縫われている胴体、(・×・)の顔が愛らしい。
「俺も好きか嫌いかで訊かれれば好きと答えるからな。 良いと思うぞ、可愛いしな」
「…ふっ、自信作だ。 中々似ていると思わないか?」
「似ているって…誰にだ?」
「い、いや…気にするな。 それより、寝るのなら…わ、わ、わた…っ、医務室のベッドを使え空いているからっ!」
「え? わ、うわぁっ!?」
最後の部分を早口でまくし立てたユリによって弓弦は部屋から出される。
「…はぁ、咄嗟の転移先に選んでしまったとはいえ流石に悪いことをしてしまったな…。 お礼は明日改めて言うとするか。 よし、寝床寝床…」
医務室の前へ。 しかし、扉には鍵がかかっていた。
「…はぁ、許可が下りても入れないとどうしようもないな。 どうしたものか…」
残念ながら、以前レオンから渡されたマスターキーは隊員証と一緒に隊員服の裏ポケットだ。 元々丸裸で部屋を脱出した彼の持ち物は“アカシックボックス”で取り出せるものだけだ。
以前試してみたが、この魔法は、幻魔法属性に属し、仮想空間に倉庫を形成してそこに物質を保存する魔法であり、同一空間に在る物質を転送することは出来ない。
それに“テレポート”の魔法もピンポイントで対象物を転移させるための座標を定めなければならない。 風音を転移させた時は例外であり、あれは彼女の魔力を頼りに、大きめの転移陣を出し且つ、風音が動けるからだ。 フィーナに気付かれないような最小限の転移陣を隊員服の裏ポケットに、ピンポイントの座標に出すなど、知影でもない限り不可能だ。
結局諦めて弓弦は甲板で一夜を過ごすことにするのだった。
ツン。
「……」
ツンツン。
「……何だ…?」
もにゅ。
「ひゃぁっ!?」
犬耳を掴まれて出た変な声と一緒に弓弦は飛び起きた。 一気に覚醒した眼で犯人を探す…しゃがみ込んで真横から彼を見ていた。
「…気持ち良く寝ていたのを邪魔したのはお前か、イヅナ?」
月の位置を見るに時間はあまり経過していないようである。
「…コク。 身体痛める…駄目…絶対」
「そんなこと…っ、あるな。 だがイヅナ、まだ朝と言える時間じゃないがお前いつもこんな時間に起きているのか?」
「…たまたま。 …涼みに来た」
セティは本当に涼みにきただけなのだろう。 白い寝間着を着ていた。 リボンを付けていないので犬耳が丸見えだ。
「…犬耳については触れないが、そんな薄着じゃイヅナこそ風邪を引くぞ? この時間は基本冷えるし…」
「コク…だから…もう帰る」
「…ん?」
弓弦を立たせて、その手を引っ張り始める。
「…連れてく…心配、だから…」
「…それは俺にとってありがたい話だが…良いのか?」
「…断る理由…無い。 …どうして?」
「…いや、良いさ。 ふぁ…ぁ、眠い…」
「…速く…行く」
502号室。 忘れがちだがセリスティーナ・シェロック大佐(何だかんだ言って偉いのである)実行部隊副隊長だ。 セティがカードキーを挿し込み、扉が開く。 部屋の電気は消してあるがハイエルフは夜眼も利くのである。 布団が二つ敷かれており片方が膨らんでおり、中では風音が小さな寝息を立てて眠っていた。 もう片方の布団の枕元にはセティの普段着と、もう一着寝間着が置いてあった。
「…何でこの服があるんだ?」
「…? フィーナ…持って来た…」
「フィーナが?」
それは以前、転送事故で取り残された時弓弦が就寝時に着用していた寝間着だった。 触れると魔法文字が浮かび上がり、そこから『すみません』と読み取ることが出来た。
「…あいつ、ワザとだったか。 酔うのが早いような気はしていたが…説教が必要か? …いやご褒美か。 何にせよ良かった、ちょっと脱衣所借りて良いか?」
そう、あれはフィーナの演技だった。 …半分+α本音が混ざっていたのは間違い無い。
「…ふぁ…ぁ、眠たくてしょうがない…なら、この辺りで寝かせたもらうな?」
「…駄目、こっち」
自分の隣をぽんぽんと叩く。 即ち、「一緒に寝ろ」と彼女は言っているのだ。 風音の布団ならまだしも(?)セティの布団で一緒に寝るのは気が引ける彼。 セティはまだ十五歳、弓弦達の世界でなら本来中学三年生だ。 事案にならないかが心配であった。
「ここで良い。 畳で寝れるだけでも全然マシだ、ほら、俺に構わずイヅナも速く寝たらどうだ?」
「…駄目、こっち」
更に強く布団を叩く。
「…俺、寝相悪いぞ?」
「…コク」
「いびき…煩いぞ?」
「…問題無い」
弓弦とて日本男児だ。 布団で寝たいという誘惑に興味が無いわけではない。 寧ろ寝たい、今すぐ布団の中に滑り込みたいといった欲求は眠気と合わさり、弓弦に悪魔の囁きを運んだ。
ーーーまえよ。
「…っ」
ーーー寝てしまえよ。 女の子と二人…ゲヘヘ。
「悪魔ってより変態じゃないか!?」
否、変態の囁きであった。
ーーーフィーと姉妹丼、良いじゃないか! ハイエルフは一夫多妻制、結ばれてしまえ…!
「…ゴクッ」
「? …速く…来る」
弓弦の内なる葛藤は露知らず、彼を急かし続けるセティ。
「一応中学三年生だぞ? 年齢的にも絵図的にもマズいに決まっている…!」
ーーーそれは、誰が決めた?
「いや、都条例…というか…決まりだな」
ーーーそんなもの、ぶっとばせッ!!
「熱いなお前!?」
この時の彼の心の声は熱血なようである。 非常にどうでも良いことが分かった。
ーーーここは東京か? 違うッ! 異世界だッ! そんなルール、異世界では通じないッ!! 誰かが決めたルールなど無用ッ! 敷かれたレールに従うなッ!! 下らん道理など通すなッ! キマリは通さないッ!! 今はお前がルールだ、橘 弓弦ッ!! 決めろッ!
「キマリは通してあげろぉぉぉぉ「…ぅ………う…ん…っ」ッ!?」
風音の悩ましい寝息にツッコミは中断させられてしまう。 どちらにせよ、夜中に大声でのツッコミは近所迷惑だ。
「……速く」
セティは相変わらずマイペースに布団を叩いて急かす。
ーーー彼女は待っているんだッ! 例え据え膳だとしても、食わなかったら男の恥ッ! 一緒に寝ろッ! 自らの欲望のままに、あの幼き身体を蹂躙しろッ! お前色に染めるんだ…拒めない身体にするんだッ! これまで、知影にも、フィリアーナにもやってきたことだろうッ! 何故今更躊躇うッ!?
「…言いたいことがよく分からないな」
ーーー臆病者ッ! 本能に従うのだッ! 別に良いではないか、彼女は、あそこでお前が隣に来るのを待っている彼女は…ッ!
「…寝ない…の?」
俯いて、残念そうに呟くセティの姿に弓弦の心が痛んだ。 二つの選択肢に悩み続ける彼に、ついに止めの一撃が繰り出されることになる。
ーーーお前のッ! 義妹なんだぞぉぉぉぉッッッ!!
「よし寝よう。 …一緒にな?」
弓弦は、シスコンである。 そしてフィーと婚姻関係にある彼にとってセティは、妹だ。 それが答えだった。 それが、真理だったのだ。 義妹…何と蠱惑的な響きなのだろうか? 弓弦とて、“そういう妄想”をしていなかったわけではない。 昔の彼は子どもながら、姉や妹に、とある言葉を言ったことがあった。 ふと、弓弦の脳裏にそんな記憶が蘇ったが、彼の最優先目標は、義妹と一緒に寝ること、ただ、それだけだ。
「…待ってた…でも遅い…」
「義妹の頼みなら何だって訊いてやるよ。 何なら、これからは毎日一緒に寝るか?」
「…すぅ…」
若干の本気を交えながらそう言ってみるが、セティは既に寝ていた。 寝付きが良い子である。
「…寝顔は姉妹そっくりか。 この睫毛とか…可愛いものじゃないか。 俺とフィーの…って何を考えていてるんだ俺は…はぁ」
いかがわしい考えを極力捨てて瞼を閉じる。
「……パ…」
微睡みの中でセティの寝言が聞こえたような気がしたが、弓弦の耳はよく聞き取ることが出来なかったーーー
日の出と共に風音は身体をゆっくりと起こした。
「あらあら…うふふ。 何時の間に」
隣の布団では、本来の布団の主の他にもう一人、一緒に寝ている人物がいた。 勿論弓弦とセティだ。
弓弦に腕枕されるようにしてぐっすり眠っているセティの幸せそうな顔が印象的だ。 見つめること数分、風音は身を清めるために朝のシャワーを浴びるのが日課。 二人を起こさないように足音を潜ませながら、タオルと着替えを引き出しから取り出して脱衣所に、元栓を捻ると水が出る…やがてお湯になり、彼女は身体を洗う。 時間をかけ過ぎてはいけない。 手早く、丁寧に身体を洗っていく。
身体を洗いながら冷蔵庫の中に何が入っていたかを思い浮かべる。
「…葱と豆腐と…あら、石鹸も少々怪しいですね…これは買い出しに参らねばなりませんか。 あ、折角です…♪」
考えている最中に髪も洗い終えてタオルを身体に巻き、風音曰く、“フライヤー”で髪を乾かす。 風音曰く、だ。 実際は“ドライヤー”。 “フライヤー”では乾かすどころか揚がってしまうではないか…と、これを弓弦が聞いたのならツッコミが入りそうなものだが、本人現在爆睡中だ。 起きたら吊った腕の痛みとの戦いが待っているであろうが自業自得である。
そう、何を隠そう彼は毎朝戦っているのだ。 自室のベッドで寝る際は必ずと言って良いほど、左腕で知影、右腕でフィーナを腕枕しているものだから、当然朝は吊ってしまう。 寝返りも出来ずにずっと仰向けのまま寝ている。 無理矢理出来ないこともなく、過去に一、二度試してみたのだが、彼の心臓にあまりよろしくないことばかり起こってしまい、眠れなかったということもある。
例えば左向きに横になったとしよう。 右では腕枕が無いフィーナが寝心地の良い場所を求めて動き、彼の背中に身体を寄せる。 まずこれで彼は、元の仰向けに戻れなくなる。
そして、左には知影が寝ている…お分りいただけただろうか。 無防備な弓弦の唇を逃すほど彼女は馬鹿ではない。 寝ながらしっかりと堪能されてしまうのだ。 恐るべしヤンデレ純情一途乙女。
そんな非常に果てしなく猛烈にどうでも良いことは置いといて、髪を結い上げ簪を挿し、着物を着付け終えた風音はサッと洗米を済ませると、茹でた筍と調味液を入れて炊飯器のスイッチを押す。 豆腐と葱が無いので汁物は豚汁に。
彼女が作ろうとしているのは、出し巻き卵、焼鮭、キャベツの浅漬け…三人分の朝食だ。 『鹿風亭女将たるもの、完璧であれ』…鹿風亭先代女将である彼女の母親、葛葉の言葉だ。 風音は、実際母は女将としては完璧な人物だったと記憶していた。
塩を振った鮭を焼く前に風音が窓を開けると、朝の香りが柔風と共に部屋の中に入ってきた。 時計をちらりと見ると、六時半。 いつものセティなら既に起きている時間だ。 だから風音はこの時間に合わせて朝食を作るのだが、起きる素振りは無い。
「……」
「あら、御早う御座います弓弦様。 今日も良い風が吹いていますよ♪」
畳に正座した風音の眼の前で、眼を開けた弓弦が身体を起こそうとして、止めた。
「…お邪魔してるぞ」
「いえ御構い無く。 如何されます?」
セティを見る。
「眠り姫が起きてからだな。 悪いが朝ご飯はもう少し待ってくれないか?」
「勿論で御座います。 ですが、その必要は無いみたいですよ」
「……」
セティが身体をゆっくりと起こす。
「……起きたか?」
「……」
ゆらりと揺れ、再び弓弦の腕へと倒れ込んでくる…どうやら寝ぼけているようで、ボーッと虚空を見つめていた。
「あらあら…珍しいですね。 何時もはこの様なことは見ないのですが」
「やっぱり子どもらしい一面もあるのか…可愛いな」
「クス、イヅナにその様なことばかり仰ってますよ? 少し嫉妬してしまいます」
「子どもと張り合うな。 それに本当のことなんだから構わないだろ?」
セティの犬耳が微かに動いた。
「…。 イヅナ、起きているのは分かっています。 下手な演技は止めて起きて下さい、朝御飯ですよ」
「……ご飯…食べる」
今度こそ、セティが身体を起こした。 左腕が解放された弓弦も身体を起こした。
「汁物を温めて参りますので、イヅナも弓弦様も、御布団を畳んで歯を磨いてきて下さいね」
言うなり、風音はIHコンロ(ハイテクである)とグリルの火を付けて料理の仕上げに入った。 大根おろしを卵焼きの上に載せて卓袱台へ。
「…ご飯」
「座布団座布団…」
弓弦が座布団を用意してセティが食器を卓袱台に持っていく。 食卓は完成し、三人は食事を始めた。
「うん、美味い。 暫く食べていないと一段と美味しく感じるな。 のんなのを毎日作っているんだよな?」
「? フィーナ様や知影さんは作らないのですか?」
「三人で手分けして作るんだ。 だから完璧な上げ膳据え膳の朝食は久し振りなんだ」
「そうなのですか…悪くないと思います」
セティも食べながら頷く。
「クス、私で宜しければ毎朝作りに参りますよ? あ、弓弦様が此方の部屋で過ごされるというのも良いですね♪」
「確かに悪くはないが、知影とフィーに怒られる…たまに…そうだな…週一でこっちに泊まりに来る…って、不倫中の男か俺は!?」
「…弓弦…不倫男?」
「ぶっ!? ゴホッゴホッ! ふ、不倫男じゃないぞ俺は!! そうだよな風音!!」
言葉の刃が弓弦に深々と刺さる。
「クス、弓弦様は不倫男です、不倫男で御座います、不倫男で間違い無いと思います♪」
「ぐはぁっ!!」
否定しきれない自分が情け無く思えてしまい、耐えきれず卓袱台に突っ伏す。 その直前に、料理が載った皿を自分の方へと引き寄せてスペースを作った風音はおかしそうにクスクス笑う。
「一体どれだけの女性の心を惑わそうとされているのでしょうね…♪」
「…ぉぉぉ俺だってな、好きでこんな状況にしたわけじゃない…いやそもそも、誰がいつ不倫しているんだ!!」
「ではそろそろ、何方が本命であるのか、私に教えて下さいませんか?」
「私でも構いませんよ?」と、冗談めかして言う風音。 オマケに、納得のいく答えを弓弦が言うまで朝食を食べさせない気であるようだ。 だが、それで答えを出せていたのなら弓弦とて苦労していない。 分かれば苦労しないということは様々なことについて言えるのだ。
「………」
「さぁ、私に御教え下さい。 何方なのですか?」
「少なくとも、風音じゃないのは確かだ「酷いです…酷いです弓弦様…っ」」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、よよよ…と崩れ落ちる風音。 芸達者なものである。
「私との関係は…遊びだったのですねぇ…っ」
「…風音…泣かせた」
「うぐ…っ、嘘だろ…! またなのか…っ」
嘘泣きだが、案の定騙される弓弦。
「…ど、どうすれば…? どうすれば良いんだ…?」
「…風音に…愛の言葉を囁く」
そこでセティから助け舟が出された。 無論乗らない弓弦ではない。
「そ、そうか…! よしっ、風音、好きだ!」
「…言葉が軽い…もっと…強く」
「大好きだ、愛しているぞ、風音!」
「…もっと…っ」
「まだなのかっ!? …だがこれ以上は流石に…っ」
泣かせてしまった以上は責任を取らねばならない。 しかし、これ以上の言葉をその場の勢い的なもので言ってしまうのがマズイことぐらい、弓弦ですら分かった。
だが乏しい弓弦の言葉録には、『好き』や『愛している』に『○○一(団子ではない)』ぐらいしか思い浮かべることが出来なかった。 …いや、もう少しだけ、無いわけではないのだがその重い言葉を言ってしまうと、それこそ罰が当たりそうで言えなかった。
「…何なんだこの昼ドラ一歩手前な展開は!? 言ったら突入じゃないか!! 三股男なんて俺は嫌だぞ! って、もうなってるじゃないかぁぁぁぁぁっ!!!!」
「…弓弦…三股男?」
「ぐぁぁぁぁっ!! 促している義妹が無意識だぁぁぁぁぁっ!!」
混沌である。 促すだけ促して蹴落とすとは、中々セティも風音の影響を受けているようだ。
「…早く…言う…っ」
「…フィ、フィー…お前の妹は…俺の義妹は…鬼だ…っ」
味方がいないこの場から追い詰められた彼がとる行動は、一つ。
「…悪いな風音、意気地無しの最強技を使わせてもらう。 折角のご飯残して、ごめ「残すの…駄目…ッ」…だがな、今の俺を追い詰めてるのはお前なんだぞイヅナ?」
“シグテレポ”で逃げようとした弓弦の寝間着の裾をセティが引っ張る。 弓弦当人からすれば理不尽極まりないものだ。
「…私、追い詰めて…ない…ッ」
「…だがあれはお前の…まさか」
言外の問いにセティは頷く。 先ほどから俯いて顔を窺わせない風音…あることを判断するには十分だった。
「…風音…ッ!!」
弓弦の火山が噴火した。
「ゆ、弓弦様…!?」
「そうか、どうりで無意識なわけだ…そもそもイヅナは『三股男』の所以外喋ってなかったからな…!」
据わった眼で風音に迫って行く。
「…お得意の声真似、これまた似ていたな…てっきりイヅナが言ったものと、勘違いしてしまったじゃないか…! 人に愛の言葉囁かせようなんざ良い度胸だ…!」
“イリュージョン”が解けて現れた犬耳が、毛まで逆立っていた。
「…弓弦…落ち着く」
「だがなイヅうっ!?」
伸びる手。
「…大人しく…する!」
「…ひゃ…っ! 止めろイヅナぁっ
!!」
イヅナが犬耳を鷲掴み、強く引っ張るので変な気分になる弓弦。
「…ご飯…食べる」
「…そうだな。 まずはご飯だ」
「あ、それは私の…っ」
皿が混ざってしまったので、座り直して近くにあったものを食べ始める。
「…ん、どうかしたか?」
「…。 何でもありません、何でも御座いません、問題は全く御座いませんのでそのまま御召し上がり下さい♪」
風音も残った皿を自分の前に寄せて食べ始める。 …彼女の下にあったのは、ものの見事に全部弓弦の分の朝食であった。
「ご馳走様。 食器は洗っておいても良いか?」
「御粗末様でした。 私が洗いますので結構ですよ」
食器を全部下げて洗い始める風音。 セティは着替えのために脱衣所に行ったので、弓弦は風音の背中を見つめていた。
「〜♪」
割烹着姿の彼女はどこか上機嫌なように見えた。 嬉しそうな彼女を見ている分には悪い気がしない弓弦だが、釈然としないのも間違い無いのは確かであった。
「…どうしたの?」
着替え終わったセティが弓弦の隣に腰を下ろす。
「…風音の機嫌が妙に良さ気だからな…いつもあんな状態か?」
「…今日は…弓弦がいるから」
「俺がいるだけでそんなに嬉しいものか?」
弓弦を見つめるセティ。 瞬きを数回してから首を傾げる。
「…女は…そういうもの」
「そうか…そんなものなのか」
「…あと…間接キス」
「したか?」
風音が布巾で拭いている食器を見る。 全然身に覚えが無い。
「…全部…風音の分だった」
「……それは悪いことをしたな」
意識すらしてなかった、何と言う鈍感男であろうか。
「…何で気付いていないのか…不思議だった。 …風音…ずっと見ていたのに」
「御茶が入りましたよ」
茶が入った湯呑みを、“五”個卓袱台に置いて座布団の上に正座する風音。 彼女に倣うように弓弦とセティも座布団に座る。
「…? …五個?」
「…そう言えば…そんな時間か」
「はい、そろそろです」
部屋のドアが叩かれる。
「俺が開けてくる」
「いえ、私が」
立ち上がろうとした弓弦を制して、風音が扉を開ける。
「お邪魔しま〜す! あ、いた!」
「…悪かったわね風音、ご主人様を預けて」
「クス、御構い無く。 御茶が入っておりますので、どうぞ中へ」
「えぇ、お邪魔するわ」
入ってきた知影が弓弦の隣に、フィーナがセティの隣に座布団を敷いて座る。
「…俺は荷物か…はぁ」
「あらあら…弓弦様が塞ぎ込まれてしまいましたよ?」
「…あ、すみませんご主人様…私を叱ってください♪」
「叱るか。 もう知らん、一人で発情してろ、この駄犬」
「…んっ♪」
拗ねたような言い方は、逆に叱るような言い方になってしまい、荒い息で俯きプルプルと震え始める変態。 そんな彼女を見て自分の失言を悟り、弓弦は頭を抱えるのであったーーー