英雄とは
「どうしてこうなってしまったの…?」と、フィーナは弓弦がいつも使う疑問の言葉を心の中で呟いた。
「……すぅ…」
耳掃除を終える頃には、弓弦は眼を閉じて深い呼吸をしていた。 今度は気絶ではない。 所謂ガチ寝である。
フィーナとしては、今度は自分がしてもらおうと思っていたので少し残念であった。 少しというのは、耳掃除をしてもらえないことより、今自分が膝枕をしていて、そこで弓弦が寝ているということの方が嬉しいからである。
今の自分の顔、気持ちを引き締めようとしても、幸せ過ぎてすぐに緩んでしまうので諦めている以上、やることが無かったし、動くことも出来なかった。
周囲を見回し目的の魔法具を見つけて使いたかったが、遠くて手が届かない。
なので彼女は一計を講じることにした…といっても、風魔法のちょっとした応用で目的の物を手繰り寄せようと試みた。
「…風よ」
魔力を使って風に語りかけ、目的の杖状の魔法具を転がして運んでもらう。
「…もう少し…よし、これだわ」
杖を握って魔力を込めていくと、杖から光線が発せられて本棚の奥の隠し棚にある本に当たったように見えたのを確認してから、更に魔力を込めた。
本が持ち上がり、フィーナの手元へとゆっくり飛んでくる。
掴んで表紙を確かめる…『妖精は夜に舞う』というタイトルで間違い無い。 彼女の愛読書だ。
以前弓弦に読まれてしまった本はこれである。
因みに彼女が使った魔法具は『ソーサリースタッフ・サイコ』という魔法具で、込められている魔法は念動属性の“サイコネス”。
魔力を込めることで起動、対象の選択のための光が直線状に放たれ、再度、魔力を込めることで選択された対象物を引き寄せることが出来る。
念動属性は支配属性と似ているが、前者は物理的、後者は非物理、つまり、精神的という違いがある。
だが支配属性自体が『失われた属性』とされるものであるので、今となっては同一視する者も少なくはない。
「………」
そんなどうでも良い(?)説明は兎も角、フィーナは本を開いて読書の世界に入る。 これで弓弦が眼を覚ますまでの時間を潰すことが出来そうだった。
ーーー三時間後。
「…うん…?」
ゆっくりと瞼を開ける。
最初に視界に入ったのは白い布。 フィーナのワンピースだ。
「…あ、起きられましたか?」
上から声。 顔だけを動かしてその方向を見ると、本を傍に置いたフィーナが映った。
身体を起こして周りを見る…昼だろうか。
「すまん。 折角のデートなのに…」
「まだまだ時間はたくさんあります。 それに…私も気持ち良かったですから…♪」
気持ち良くなる要素など無いとは思ったが、もう一度軽く謝って立ち上がる。
「時間は?」
「丁度お昼の時間です。 何か作りましょうか?」
同じように立ち上がったフィーナがポンポンとスカートを叩く。
「どこか食べに行こうか。 今日ぐらいしか行けない店にな」
本を“アカシックボックス”でしまってもらってから弓弦が差し出した手の指に指を絡めて、家を出る。 “ベントゥスアニマ”で鳥達と共に蒼へと翔び立った。
「ふふ、森も、風も、鳥達も、『また来てね』と言っています♪」
「あぁ、意識を傾けなくても分かる…何て言うか…温かい気持ちになるな」
高くまで飛んで海面スレスレまで急降下したり、途中で急旋回するなど手を繋いで自由に飛ぶ。
それはまるで空が大きな舞台となったようだった。
並んで飛んでいる鳥達が周りの取り巻き、主役は二人のハイエルフ。 彼と彼女の円舞曲は放つ魔力と合わさり、まるでもう一つの太陽のようにたまたま遠くからそれを見ていた船乗り達の眼には映ったという。
「どちらに向かわれているのですか?」
「西の国だ! まだ行ったことが無いから新しいところに行ってみるのも良いだろ? フィーはどんな国か、知っているか?」
「…わん! ですが、私は今から西の国のことを忘れます! リードしてください、デートなのですから!」
気持ち良く空を舞えているのでテンションが高いのだろう。 力強く頷くと、遠目に見えた大陸に向かって速度を上げた。
少し離れた草原に着地して、王都を目指す。
「…あれは…キャラバンか。 きっとカリエンテのバザーの帰りだな。 おーい!」
王都に向かっているキャラバンに弓弦が手を振ると振り返してくれた。
そのままフィーナの手を引いて彼等の下へ。
「カリエンテ帰りの一隊と見たが、合ってるか?」
「おぅともよ! あっしらクメール商会っつうデカイ商会のキャラバンですぁ。 歩きながらになりゃあすが、何かご用で?」
キャラバンのリーダーであるらしい人当たりの良さそうな、いかにも商売慣れた男との握手に応じる。
「大きな商会か…どんなものを取り扱っているんだ?」
「細工物ですぁ。 数あるオエステの細工物の中でも、ウチが取り扱っているものは逸品物でっせぇ。 どうでぃ、一つ?」
「はは…生憎だが」
親指と人差し指で輪っかを作って見せる。
「あまり無くてな。 それにどんな細工物よりも、こいつの方が何千倍も価値があるさ」
「…ぁ…っ♪」
フィーナを抱き寄せて歯が浮くような台詞を言う弓弦。 この男、変なところで悪ノリしている。
「はっは〜っ! 見せつけやがってぇ! 何年になるんでぇ?」
「逆に何年だと思うんだ?」
「返すってかぁ? どれ…」
顎に手を当て、見定めるような眼で二人を見る。
「指輪を見る限りどちらかってぇと、長くても三年、まだ最近ってぇとこだ。 どうでぇ?」
フィーナが小さく頷く。 「それで良い」との合図と受け取り、弓弦は「そんなところだ」と言う。
「おっと、悪いな。 上への報告に行かんとならねぇ。 気が向いたらクメール商会、宜しくな。」
「気が向いたら、な」
「こらぁ手厳しい」
『オエステ』というらしいその街の入口で別れて、弓弦は街並みを眺める。
細工物で名があるのは確からしく、至る所に工場が見受けられる。
王城の前に大きな建築物が建っており、『クメール商会』、『ザイラッツ商会』とそれぞれ看板に文字が書いてあった。 この国の二大商会だろうと適当に見当をつけて、弓弦は賑やかな雰囲気が漂っている方角へと足を向けた。
「楽しそうですね」
歩きながら弓弦を見るフィーナ。
「俺がか? 訊くまでもないだろう? 凄く楽しいな。 フィーは?」
「今の私、退屈そうに見えますか?」
弓弦がこちらを向く。 微笑んでみせた。
「いや、凄く楽しそうだ」
「わん♪」
人で賑わう大通りを密着気味に通る。 フィーナのルックスの良さは人の眼を引き付けていたのだが、さり気なく弓弦が人を避けているので、フィーナにちょっかいを掛けようとする者はいなかった。 正確には掛けられなかった。
また基本的にフィーナに向けられた好奇の視線は、弓弦に向けられる羨望や嫉妬の視線に変わっていったが、二人が気に留めることはない。
そのまま適当なカフェを見つけて昼食を摂ることにした。
「たまには艦を離れての気分転換というのも良いものだな…」
片手に持つホットドッグを頬張る。
『知影に嫉妬されてしまうわね。 ご主人様は分かっておられるのかしら…?』
楽しいのは間違いないのだが、フィーナは知影のことが少し気にかかっていた。
昨日一日中、知影と部屋で何をしていたのかは分からない(というか知ってはいけないような気がする)が今の状況は、彼女が見たら即襲いかかってくるほど激怒しそうな状況なので、自分にとってあまりに都合が良過ぎる状態がフィーナにある可能性に関しての予想を立てさせていた。
「フィーも食べるか? ほら」
そう、夢オチの可能性だ。 普段の弓弦はここまで積極的ではなかったような気が彼女には思えたのだ。
「…わん♪」
ホットドッグを軽く齧る。 …何故か味はしなかったが、その代わりと言わんばかりに胸が苦しかった。 キュンッと締め付けられるような甘い感覚。 口の中で噛めば噛むほど幸せな気持ちに。
「美味いか?」
「…よく、味が分からなかったです」
「そうか…ん、味結構濃い目だと思うが…もう少し食べてみるか?」
「わん」
味はしない。 無味である理由は分からなかったが、胸が苦しい。
知影に、負い目でも感じているから美味しく感じることが出来ない…と、最初は考えた。
でも、夢だとするのなら納得はいく。 実際に食べているわけではないのだから。
「…どうだ?」
「……こっちの方が美味しそうです」
夢なら、何をやっても良いだろう。 夢だから。
多少羽目を外しても、文句は言われないはずだ。
「は!? むっ!?」
突然唇を重ねあった二人に周囲の視線が集中する。 恥ずかしいとは思っていない。 寧ろ見られていることに、快感を感じた。
角度を変え、重ね続ければ続けるほど身体が火照り始めたような気がする。 視界が霞み始めたような気もする。 このままだと、自分を抑えられなさそうだった。 白昼堂々、人前で、あられもない姿を見せて、見られて、愛を確かめ合ってそしてーーー
「きゃうんっ!?」
その前にハリセンで叩かれた。
「時と場所を考えてくれ…つい身体が反応してしまったじゃないか」
「…すみません。 夢だと思ってつい…」
叩かれた痛みで夢じゃないことを確認させられる。 …彼女とて分かってはいたが。 「じゃあ何故夢だと思った?」…と訊いてはいけない。 「そっちの方が色々誤魔化しが利いたから」と答えても、いけない。
「しかし何でまた、夢だなんて思ったんだ?」
訊いた男がいた。
「…あまりに私にとって都合が良過ぎるのでつい……」
「デートだろ? 当然じゃないか。 こういうのは楽しんだもの勝ちだからな。 フィーも深く考えずに、ただ楽しめば良いと、俺は思うぞ?」
「…何も考えておられないのですね…もぅ、色々考えてた私が馬鹿みたいじゃないですか…」
弓弦は後先考えずに楽しんでいるだけである。 思考回路はショート寸前…どころか、名無し島の時点で停止したまま治る気配は無い。
なのでフィーナは名残惜しさを感じつつ、無理矢理自らの主人(二つの意味)の思考回路を治すことにした。
「私とデートしてくださるのは良いですけど、知影さんには後でどう伝えられるのですか?」
「……」
途端に青ざめる顔。
「……一緒に…謝ってくれないか?」
震えながら頭を下げる…実に情け無い姿である。
「…もう昨日みたいに縛り付けられて過ごすのは嫌なんだよ…は、ははは…」
絶句するしかないフィーナ。 何をされていたのか、弓弦が今思っていることしか覗けないが、そこから彼が昨日、一日中ベッドの上だけで生活していたことは容易に理解出来た。 いつも見ている天井、あらゆる意味で甲斐甲斐しく弓弦の世話を焼いている知影…鏡に映ったフィーナと似たような顔をしていたので、きっと頭の中では辺り一面花畑が広がっているのだろう。
彼女は、実に幸せそうだったが、弓弦は自身を見つめる恍惚とした彼女の表情にかなり怯えていたが。
…今も、思い出したのか妙に身体を震わせている。 以前のディオやレオンほどではないが、彼女のヤンデレは確実に周囲の精神を蝕んでいるようだ。
それはフィーナにとっては由々しき事態である。 主に弓弦が怯えることが。
「仕方ありませんね。 私も謝ります。 ですから堂々としていましょうか。 今は、デート、ですよ?」
「…そうだな。 よし、パフェ頼むか。 フィーはどのパフェを食べたいんだ?」
「どうせなら一緒に大きいのを注文しましょう。 このパフェです」
店員を呼んで、フィーナがパフェを注文する。
「お待たせしました〜♪ こちら『ストロベリーブルーベリーラズベリーベリーベリーバナナチョコホイップ特盛レインボ〜アイスパフェ』でございます!」
ズドォーンッと机に置かれる巨大なパフェ。 高さ70cm、幅30cmのパフェグラス。 その頂点に絶妙なバランスで盛り付けられたレインボ〜なアイスがレインボ〜な輝きを放っており、弓弦とフィーナ、延いては二人の様子を眺めていた通行人達の視界をレインボ〜に染めた。
「…お、おぉ…凄いな。 …セイシュウ辺りが喜びそうだ」
「…食べきれるのかしら…?」
パフェがこれだからスプーンの長さも尋常ではない。 長いのだ。 異世界クオリティ恐るべし。
「…自分で食べる分には長過ぎる…ということは」
「わん♪ お願いします」
犬言葉がすっかり出突っ張りのフィーナ。 スプーンでアイスを彼女の口に運んで自らも運んでもらう。 恥ずかしいが、楽しい。 楽しいから、繰り返す。 きっとこれがこのパフェの正しい食べ方なのだろう。 一人でこの量は甘過ぎてくどくなってしまうはずだからだ。 余程の甘党でない限りは。
「ご主人様も…どうぞ♪」
「…っ、中々恥ずかしいな…♪」
しかし、食べていないのにも関わらず、二人の間に流れる空気の甘ったるさにより無糖コーヒーを注文する人が続出。 後日オエステ国内その日のブラックコーヒーの売上は、過去最高を記録することになるのである。
「ふぅ…ボリュームあったな。 …味があまり分からなかったのが残念だ」
しかし後日談は後日談。 今は当日である。
陽が落ちようとしている頃カフェを出た二人は、公園のベンチに腰掛けながら、ボール遊びをしている子ども達を眺めていた。
「…そうですね、私もお腹一杯です。 今晩のご飯は少なめにした方が良いですね」
「だな。 本当ならば、こっちでゆっくりするのも悪くはないが暫くは、あいつの側にいてやりたい。 だからもう少ししたら帰ろうと思うが…良いか?」
「えぇ、勿論私もそのつもりでしたから。 でもその代わり、戻ったら“エルフのくちづけ”を一緒に飲みましょう…良いですよね?」
フィーナの本心としては、このままあの艦を離れて静かに暮らしたかった。 それが出来ないことだと分かっているからそう思ってしまうのかもしれないが。
「勿論だ。 だがその代わり、飲み過ぎるなよ?」
「わんわん♪」
「どうした急に?」
「…やってみただけです。 …どうでしたか?」
顔は真っ赤である。
「普通に可愛いと思ったが?」
「ふふ、ありがとうございま…っ!?」
フィーナに向かって、飛んできたボールを掴んで投げ返す。
「野球か? 気を付けろよー! …フィー、大丈夫か?」
「はい…ご主人様こそ、素手で掴まれて大丈夫ですか?」
「俺があんな打球で怪我をすると思うか?」
「見せてください」
「見せるほどじゃない。 気にするな」
さり気なく視界から手を隠そうとしているのを彼女は見逃さない。
「では何故隠そうとしているのですか? 見せてください」
隠そうとした右手へと手を伸ばす。
「全然大丈夫だから気にするな」
後ろに隠す。
「見せてください」
隣に密着して手を回す。
「気にするな」
身体を傾けて、手をさらに奥へ。
「見せてください!」
「気にするな! っ、わっ!?」
「見せなさい!」
「大丈夫だから! あとその姿勢止めろ、見られてる!」
周りを見る。
体勢を崩した弓弦の右手へと、のし掛かるように手を伸ばしているフィーナの構図は、側から見ると押し倒し、押し倒されている男女の様。 当然、視線を集めていた。
「…コホン、分かりました。 本当に怪我をされていないのですよね?」
「あぁ」
諦め、視線を遊ぶ子ども達に戻す。 身体は密着させたままだ。
「…私と」
「ん?」
「弓弦、『二人の賢人』が二百年前に守った平和なのですよね」
「そうだな」
眼の前の光景を見ていると確かに弓弦はそう思った。
「…もしあの時私が一人で、“ヴィクティムヘドロン”を使ってバアゼルを封印していたのなら、この光景を私が見ることはなかったでしょう」
「…過ぎたことだ。 今となったら分からんが…きっと、レオン達がバアゼルを討っていた。
俺はフィーを助けるためだけにあの場へ行ったんだ。 世界なんて二の次でな。 それに、『二人の賢人』が守った平和は、二百年前のあの時だけだ。
あの時より後の時間の平和は、この世界に生きる人々、全員が守ってきた平和だ」
「今この瞬間も、たくさんの人々によって平和は支えられている。
頑張った甲斐があったというものです。 受け取りようによっては、あの男達の主張も正しいのですけどね」
音弥達のことだ。 フィーナがそっと弓弦に手を差し伸べる。
「…『英雄はいらない』か。
奴等にとって俺達は、単なる老害でしかなかったというわけだよな」
その手を、彼女に近い右手で握る。
「ま、英雄の名なんてくれてやるさ。 あの時俺が欲しかったのは英雄の呼び名じゃなくて、フィーだったからな。
第一平和は、たくさんの人々の願いだ。 願いの数だけ思い描く平和がある。 平和を願い立ち上がる人の数だけ、彼等の心に英雄はいる。 綺麗事だがそう、信じたいんだよ、俺は」
「私も、平和を信じたいです。 …人間はあまり信じたくありませんが、眼の前の、世界の将来を担う子ども達の平和は、信じます。 …ですが今は」
聖母のような微笑を浮かべて弓弦を見る。 手を握る力を強める。
「いっつ!?」
「…“ヒール”。 怪我は治しましょうね? 治せばそこまでの話なのですから」
“ヒール”を掛けて弓弦の手の腫れを引かせて、少し子ども達と遊んでから二人は帰路についた。
* * *
アークドラグノフは阿鼻叫喚の様相を呈していた。 誰が原因か、言うまでもない、ヤツだ。 ヤツが暴走している。
「…私の弓弦は…どこ…? ねぇ、どこなの!? 弓弦〜弓弦〜…どこ〜弓弦〜…どこなの〜? ふふふ、ふ、ふ、ふふ、ふふふふふふふふふふ!」
「あ、あら〜?」
「レ、レオンッ!? だ、誰か! メディック、メディーック!!」
知影の狂気に当てられて気を失ったレオンをセイシュウが支える。 既に気絶者数多。 艦内の男性隊員の殆どが錯乱状態になることとなった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!? 悪魔だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」「助けてくれぇぇぇぇぇぇぇっ!!」「来るなぁっ、来るなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「どこにいるの…私の弓弦ぅぅぅぅぅぅっ!!」
弓弦とフィーナはそのころ、甲板に退避していた。 何というか、艦の隊員に迷惑を掛け過ぎて妙に顔を合わせずらかった…のもあるが、もう一つの理由は、
「弓弦ぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
知影を甲板に誘き寄せるためだ。 完全な猛獣扱いである。
短剣を逆手に構えた彼女は、対象を発見すると、飛び掛った。
「…っ、知影!」
フィーナと知影の間に躍り出て、両手を広げ立ち塞がる。 圧倒的なフットワークだ。 ハイエルフである二人の眼を以ってしても、知影の動きは見えない。 反射的の行動だった。
「邪魔者…退さぁぁぁぁぁぁんっ!!」
「知影、止まれぇぇぇぇぇぇっ!」
「…ッ!? 弓弦!!」
短剣を空に投げて弓弦に抱き付く。 同時に狂気が収まり、艦が静かになる。
「…どこに行ってたの? ずっと、ずっと、ずっとずっとずぅぅぅっと探していたのに」
「…すまん。 少しフィーと出掛けていたんだ…な?」
「…っ、そうよ。 悪いわね、どうしても外せない用事があったものだから」
上空から狙い澄ましたかのように落ちてきた短剣を避けて、冷や汗を流すフィーナ。 これを見越して短剣を空に投げたのかと、弓弦は舌を巻く。
「外せない用事って、何? 私が付いて行っちゃいけない用事なの? へぇ、そうなんだ。
私一人置いて二人で甘い一時を過ごしてたんだぁ…っ、許さない…っ!」
「待て待て待て! 落ち着けって! 甘い一時なんか過ごしていないから、な! フィー?」
「…そ、そうよ知影。 どうしても今日はあなたを連れて行けなかったの! 悪いとは思ってるわ。 だから弓を向けないで!」
弦が引き千切れそうなほど、矢を番えて引く知影。 夜風が普段の数倍冷たく感じる。
「弓弦はいつも私に優しいんだぁ…だから嘘も付かない、フィーナに言われて仕方無く庇っているんだよね…そうだよね…殺ってやる、殺るよ私は…っ、弓弦のためなら殺人鬼になっても、良いッ!」
「‘…どうするのですか? 聞く耳を持っていないみたいですけど’」
放たれる弓矢。
「ねぇ、何を話しているの!! 私の旦那様から離れて!!」
「くそ…っ! …結局こうするしかないのか…っ」
「ご主人様…?」
苦虫を潰したような顔でそう吐き出してから知影を無理矢理抱きすくめた。
彼女はそれに即反応して、自らの匂いを擦り付けるかのように彼に擦り寄った。
「…悪かった。 ほら、迷惑掛けたのなら、謝りにいくぞ」
「…でも弓弦、フィーナを殺さないと」
「…俺のことだけを考えとけ」
フィーナに申し訳なさそうな視線を向ける。 …本当は、この後一緒に飲みたかったがそれも出来ないようだ。
「知影、あなたそれで良いの? ご主人様の優しさに甘えて」
弓弦に抱き付いて、必死に唇を奪おうとしている知影の動作が止まる。
「…弓弦に甘えることの何がいけないの。
私が弓弦と一緒に居ること、それは自然の摂理だよ。 何、殺るの?」
「…何でもないわ。 早く迷惑を掛けた人達に謝ってきなさい」
「……行くぞ」
「うん♪」
艦内へと入っていく二人を横眼で見、月を眺める。
「…あなたは、歪んでいるわ」
一際冷たい風が、ワンピースの裾を持ち上げる。
指輪が輝く左手で髪を撫でながら、彼女は月夜の静寂に身を委ねるのだった。
眩い月が天高く昇った頃、フィーナは弓弦の部屋へと向かう。
「あら? フィーナ様、本日は何方にいらっしゃったのですか?」
隊員居住区の通路の途中で風音と出くわした。 髪が頰に張り付き、身体からは湯気が。 風呂上がりなのだろう。
「里帰りよ。 平和を見てきたわ」
「左様ですか。 では」
すれ違う。
「…感謝するわ」
「当然の義務ですし、御互い様です」
「御互い様」というのは、自分が弓弦を独占していたのを言っていたのだろう。
きっと知影は朝から暴走を始めていたはずだ。 それをある程度、止めていたのは風音達だったのだろう。
部屋に戻る前に彼女は医務室に寄ることにした。
「次は誰…フィーナ殿か。 どうされた、知影殿にやられたか?」
「迷惑を掛けてしまったから謝ろうと思って…大丈夫?」
「私はな…だが」
医務室ではレオンとディオがベッドの上で眠っていた。
「例によって知影殿の狂気に強く当てられた隊長殿とディオルセフ殿があの状態だ。 朝には起きると思うが、困ったものだ」
「そう…『彼の者を癒し給え、ヒール』」
「? どうしたのだ?」
「感謝の気持ちよ。 見たところあなたも消耗しているみたいだから」
「うむ、感謝するぞ」
相当回復魔法を使ったのだろう。 ユリの顔色が良くなったのを見てから、フィーナは部屋を出た。
そして、弓弦の部屋へ。
「遅かったな」
「…知影さんは?」
「寝てくれたよ。 一日中暴れまわっていたも同然だからな、ベッドに運んでやった瞬間すぐに寝た」
フィーナが視線をベッドに向けると、知影が穏やかな寝息を立てて眠っていた。 弓弦は冷蔵庫の中から一本のワインとワイングラスを二本取り出すと、机に置く。
「諦めていたんだが…どうせなら、最後までだ。 ブリューテの銘酒だったんだろ? ここで思い出に浸る…って、年寄り臭いな」
「ふふ、そうですね。 注ぎますね♪」
「じゃあ俺にも注がせてくれ」
「勿論です」
互いに注ぎ合う。 軽くグラスをぶつけてから口に傾けた。
「…知影さんについて、ご主人様はどう考えておられるのですか?」
「…今のあいつには、俺が必要だ。 今日みたいに暴走するのだったら、尚更な。
いつかあいつのヤンデレが治ってくれれば良いんだがな…」
「…もし、もし治ることがなかったらどうするのですか。 ずっと彼女と一緒にいるのですか?」
「…分からない。 だが、今のあいつは、“俺が全て”なんだ…だから、俺がいなくなることを、自分の側から俺が離れることを何よりも恐れている。 だから俺に寄ってくる自分以外の女性を遠ざけようとする。
…ヤンデレは、防衛反応みたいなものだ。 あいつを…一人にしてはおけない。 使命感とかじゃなく、俺がそうしていたいから…」
煽る、一気に。 フィーナが自分のものと一緒に新しく注ぐ。
「…私も、ご主人様がいなければ…一人になってしまいます」
「…分かってるさ。 だがどうすれば良い? どんなに頑張ろうと、俺は一人だ。
それだけは変わらない。 二人いたとしても…全部知影が取るな。 『私だけの弓弦ハーレムだぁ』…とか言い出しそうだ」
「彼女もそこまで欲張りではありませんよ。 …ですが、何か常に彼女が安心出来るような工夫を考える必要がありませんね。
例えば…子どもとか」
「な、なっ!? こ、ここここ子どもぉっ!?」
思わず椅子から落ちそうになってしまった弓弦が、動揺のあまり顔を真っ赤にして声を裏返す。 自分で言い出したフィーナも恥ずかしかったのか、手元の空になったワイングラスに新しく注ぎ直した。 そして、飲む。
「流石の知影も、ご主人様との赤ちゃんが出来れば落ち着くはずだわ。 ご主人様が少しの間いなくても、宿った小さな生命の温もりが彼女を癒してくれりゅはず…っ! 作りましょう! あの子のために!」
「目的変わってるぞ!? お前が欲しがっているじゃないかフィー! って、あの子って誰なんだよ!?」
「大人しく…っく、あの子と私のために…っ」
飲み過ぎで出来上がったフィーナが席を立ち上がり、弓弦を押し倒す。
「うん…? っ、な、何をしているの…?」
「! 丁度良いわ…! 知影、協力しなさい!!」
反射的なツッコミの声と物音で起きた知影が、寝惚け眼を擦りながらフラフラと寄る。
「…ご主人様を…二人で犯るわよ」
「…ッ!? 了解!」
「させるか!! シグテむぐっ!?」
「…ぷはっ、逃げないで弓弦…優しくしてあげるから…っ♪」
それは、見事な手際だった。
つい先ほどまでいがみ合っていた二人の女は一つの想いの下、手を取り合った。 彼女達のコンビネーションは、抵抗を図る弓弦を完膚無きまでに押さえ込み、彼を地獄へと誘う。 弓弦も抵抗した。 必死に抵抗したのだ。
だが、彼が抵抗した相手は、二人の天才(災)だったのだ。 いかに逃げ道を探そうとも行動を遮られる。
一手や二手どころではない。 三手、四手、もしかしたら百手先を読んでいる彼女達に、彼は四肢を縛られ、口を塞がれ、服を脱がされるただ無力な男だった…。
「…むぐ」
…逃げなければならない意地が、彼に全てを投げ捨てさせた。
「ん…!? んーっ!! んあっ♪」
口を封じる知影の口に舌を挿れる。 変な声が聞こえたが、気にせず続けた。
「や…っ、ん「シグテレポッ!!」しまった?!」
…夜の逃走劇は、意地の勝利で幕を下ろすのであった。