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俺と彼女の異世界冒険記   作者: 仲遥悠
“非日常”という“日常”
11/411

彼女と、ユリ

「ハックションッ!!」


 食堂内の空気を、くしゃみが小さく突き破る。

 僅かに余韻を残して響く音の主は、俺。

 急に鼻がムズムズとしただけに、我慢し切れなかった。


「大丈夫か、橘殿?」


 身を震わせて鼻を啜った俺の隣を歩くユリが、横眼で訊いてくる。

 不可抗力とは言え、少々大きめの声を上げてしまった。マナーが悪いと思って軽く謝ると、「気にしていない」と返される。


「…風邪でも引いたか?」


 それどころか、心配までしてくれる。

 あぁ…良い人だ。感動で涙腺が…。


「…ぅぅ、いや、何でもない」


 と言う冗談はさておき。凄い寒気を感じた。

 誰か噂でもしているのだろうか…? いや、まさかな。

 噂をされた場合のクシャミは三回だ。ハクションハクションハクション…と、くれば噂されていると確信出来る。

 だからハクション一回なら、噂されているとは言えないだろう。やっぱり、単に寒気を感じただけだ。


「さ、着いたぞ」


 いや、寒気というのは絶賛今当てられている。

 ここ、食堂で。

 物凄い寒気だ。「この冬一番の寒さ」と報道された次の週、「先週を上回る、記録史上初の寒さ」ですと報道された日に外出した気分だった。

 つまり、物凄〜く寒い。冷たい。冷え冷えとする。


「あまり中央に座るのもどうかと思うからな、隅のほうに座るが…橘殿はそれで良いか?」


「あぁ、構わない」


 さて、この時間の食堂はそれなりには混んでいる。

 それもそのはず。十八時と言えば、絶賛夕食時だ。朝食、昼食、夕食の内の夕食。夜食と呼ばれないのは、夜ではなく夕方に食べるからだ。

 「ちょうしょく」、「ちゅうしょく」、ときたら「ちゃうしょく」とくるのが一種の流れに思えるが、何故か夕食やら夜食と表す。強いて言うなら、「やしょく」で流れを微妙に汲んでいるとも考えられるのだが、だとすると「ち」はどこへ行ったのやら。

 そんな言葉の不思議については、非常にどうでも良いこと。そう言うもの(・・・・・・)と考えてしまえば、それまでなのだ。

 だが考えずにはいられない。今は何故だか、現実逃避をしたい気分だった──と言うのも、食堂内を妙な雰囲気が支配していることが理由だ。

 ここの食堂は椅子が六十席、机が十五卓ある。ディオが言うには、滅多に満席になることはないそうだが──何故か、十五人程が空席待ちをしている。

 じゃあ席も机も満席になっているのか…と言われると、そうでもない。俺とユリの周りの机は、空席だったからだ。

 空席があると言うのに、食堂前でお待ちの方々は、何故か誰も座りたがらない。

 頼むから立っていないで座ってくれ。非常に気不味い。


「橘殿? 先程から心ここに在らず…と言ったように見受けられるのだが、どうしたのだ?」


 「はい、貴女が俺の前で一緒にご飯を食べているからです」…なんて言える訳がない。

 食事を楽しんでいる様子の彼女に、謎の空席待ちについて話すのも何か違う。ああ言うのは、一度気にし始めたらとことん気になってしまう。今の俺のように。

 だから、はぐらかすことした。


「あ…いや、別に何でもない」


「…そうか…うむ」


 やっぱり気になる。背後から視線を注がれている感覚に、不思議と嫌な汗を掻きそうだ。

 その所為か、食事が中々食べ辛い。ユリとの雰囲気も、何だか微妙なものに。

 今のユリの発言、もう少し話を広げる余地を残すべきだったかもしれない。バッサリ言ってしまったら、話を繋げ難いじゃないか。

 …あぁ、これも視線の所為だ。アイツ等、一体何なんだ。俺達は見世物じゃないんだぞ。


「その料理、美味しいか?」


 その料理と言うのは、パスタのことだ。

 モチモチのパスタ麺が、トマトベースのソースと上手く絡み合っていて中々美味い。

 トマトの味に深みがあるのは、恐らく完熟トマトを使っているんだろう。完熟トマトのナポリタン…ってところだろうか。味付けは濃いめだが、トマトの酸味が飽きさせないためのアクセントになっている。病み付きにさせる味わいだ。

 美味さで言うなら、パスタの茹で加減も中々に絶妙。このモチモチ食感は、試行を重ねて導き出された茹で時間に基づいているに違い無い。

 ユリが推してくれた料理だったが、彼女が勧めてくるのも頷ける本格イタリアンの味だった。


「ん…美味いぞ」


 するとユリは、どこか誇らし気に胸を張った。


「…そうか。ふっ、その料理は私が考案したものなのだ。そう言ってもらえると嬉しい」


 あぁ…確かそんなことを聞いたことがあるな。

 確かに、美味しいと言うのは本音だ。

 そして、デカい…と思ってしまうのも本音だ。

 服の上からでも分かるスタイルの良さは、強調されると破壊力が増す。それが眼の前にあるものなら、なおさら。


「……」


 そんなことを考えていると、ユリは口籠る様子を見せる。

 何かを言おうとして──言うのを止めたと言った姿だ。


「ん?」


 まさか、俺の不埒な思考に気付いたのかもしれない。

 不躾な視線と言うのは、眼に見えないはずだが気付いてしまう性質を有している。

 確かにユリは、魅力的な女性に見える。だとしても、魅力的であることと色欲混じりの視線を向けてしまうことは別問題だ。


「こ、今度は…。いや、何でもない。忘れてくれ」


「…? そうか」


 結局ユリは、何かを言い掛けたまま止めてしまった。

 何が言いたかったのだろうか。心なしか、背中に感じる寒気が強くなったような気がする。

 チラリと視線を遣ると、空席待ちの人数は減っていた。

 だが嫌に不吉なのは変わりなかった。


「…そうだ、先程は…すまなかった」


 そうして暫く食事を食べ進めていると、またもユリが口を開いた。


「先程?」


「その…繋いでしまったことだ」


 あぁ、手のことか。

 いきなりだったから驚いてしまったが、別に悪い気分ではなかった。


「その…私も良く分からないのだが、何故か繋ぎたいと思ってしまった。いや…その、情けないことに空腹だったのも災いはしたのだろうが…」


 空気が凍る音が、聞こえたような気がした。

 手を繋ぐどうこうの話をしていると言うだけなのに、注がれている視線が殺意を帯び始め、俺としては冷や汗が止まらない。

 こんな時、どう切り返したら良いだろうな…。


「いや、気にしなくて良い。ユリこそ嫌だったりは…しなかったか?」


 上手く返せただろう。

 しかし何故か、さらに凍る場の空気。

 照れているのだろうか。ユリの赤い顔とは対照的に、きっと俺は真っ青な顔をしているのだろう。

 そんな視線は、遂に食べ終わっても注がれ続け──


「なぁ…払ってもらって良かったのか?」


「ふっ、誘ったのは私だ。甘えられる内に甘えておくのも、一つの特権だと思うぞ。うむ」


 ユリが会計を済ませている間、視線はさらに容赦が無くなる等して──


「甘えられる内…な」


「不服なら、その内何かしらで返してくれると良い。難しいか?」


「いや、なら是非そうさせてもらう」


「覚えておこう。ではな」


 ユリと別れてから、ようやく視線は霧散した。

 あの視線群は一体何だったんだ。呆れさえ覚えた。

 だが、何よりも不気味だったのは…。


「(…怒ってないか?)」


 もう一度、自分の中の彼女に向かって話し掛ける。


「(お前今日はどうしたんだ…。こう言う時、一番に反応をするのはお前だと思っていたんだけどな)」


 反応は、無い。いや、反応以前に自分の中に彼女が居るという気配すら、感じることが出来ない。

 …心配でないと言えば嘘にはなる。この艦に来てからと言うもの、こんなことは初めてだ。

 いや、そもそも全てがこれまでの俺からすればイレギュラーなんだ。

 もし仮に次に眼が覚めた時に、見慣れた自分の家で寝てしまっていたとしても。それを現実として受け入れられるような──周りを姉さん達に囲まれている、あの現実離れした日常に戻ったとしても──ここでの非日常な出来事も、タチの悪い夢だと認識してしまっても仕方が無いような──そう思えてしまう程、日常では絶対に起こり得ないことだからだ。


「(“変わる日常”と“変わらない非日常”…か)」


 “日常”が変わり、“非日常”になった。

 だがこれは、非日常が変わったとしても日常に戻る訳ではないと言うことを暗示的に示している。

 それを言うのなら、逆に日常が変わったとしても非日常になる訳ではないことも示してはいる。イコール、ノットイコール……この非日常が、いつの間にか日常になってしまうことも、そう遠くない日のことなのだろう。

 住めば都。いつかは、慣れてしまう。

 人間の慣れとは面白いものだと思う。


 閑話休題それはともかく


 要するにアレだ。俺は現状、イレギュラーにイレギュラーが重なっていくことを危惧しているのであって、別に…別に、知影さんのことを気にしているのではないと言うことを、ここでハッキリさせておきたい。


「(誰に向かって俺は言っているんだ…)」


 と言うか、自分で言っておいて何かしら矛盾しているような感覚があるが…まぁ良いか。

 それにしても、こうも反応が無いとな…そろそろ心配になってくる気がしなくもない。


「(部屋…戻るか)」


 気を取り直して、部屋へと戻ることにした。











「うぅ…」


 食堂前から居住区前──その曲がり角に差し掛かった時。

 少し先の方で、身体を縮こませながら部屋に向かっているディオを見掛けた。

 まるで幽鬼のような足取りからは、彼の生気が全く感じられない。


「…どうしたんだディオ、顔色悪いが」


「…僕は元気だよ、僕、元気…あはは…」


 見事な空笑。

 どこが元気なんだよ…!?


「そ、そうか…」


「うん…僕元気…僕元気…元気…」


 虚ろな声音で「元気」と繰り返すディオ。

 こんな様子なんだ。誰もが皆、彼のことを危ない人としか思えないだろう。

 そんな危ない様子なのだが、話し掛けてみて気付く。


「そうか……」


 話題が、思い浮かばない。

 俺自身、あまりな姿に動揺していた。

 参ったな、手の打ちようが無い。手遅れみたいだ。


「…じゃあな」


 時間の流れが治してくれる。そんな希望を胸に、彼を送り出すことに。


「僕、元気…元気ぃぃぃ…」


 最早ホラー映画を見ている気分だ。

 アイツ、大丈夫か…?

 生気が無かったのが気掛かりだが、部屋に帰って行った所を追い掛ける訳にはいかない。

 異様な姿を心の内に秘め、自室の扉を開けた。 


「ウェールカームゆっづる君ーっ!!」


「ふんッ」


 横に開き掛けた扉を、全力で閉め直した。

 荒くなった呼吸を、深呼吸で整え、ルームプレートを見る。


「506号室…」


 あぁ、間違い無く俺の部屋だ。

 一応、反対側の部屋を確認する。


「505号室…」


 反対側にはディオの部屋がある。その証拠にプレートにも「ディオルセフ・ウェン・ルクセント」と、ディオのフルネームが書いてあり、そこが彼の部屋だと言うことを証明している。

 先程ディオが帰って行ったのもここ──505号室だ。だから間違い無い。

 さて問題は、この表示。


「506号室 橘 弓弦 神ヶ崎 知影…?」


 …はて? 俺の部屋って相部屋だっただろうか。

 いや、と言うか覚えがあるのに覚えがない名前が書かれている…?

 良し、一旦落ち着こう。こう言う時は、取り敢えず整理だ。

 まず。

 

──知影って誰のことだ?


 俺の知る限り、この名前の人物は一人しか居ない。

 だが彼女は俺の中に居たはずだ。それに、ここに来てから他の人に、彼女の名前を言ったことってあったか…? いやそれ以前に、隊員には一人につき一つ部屋があてられるはずだから、有り得ない。


──今しがた部屋に居たのは誰だ?


 一瞬しか視界に入れていないが、声からして女性であることは間違い無い。聞き覚えのある声であったのも間違い無い。

 だが一瞬であったにも関わらず、その人物の姿は、脳内に綺麗に焼き付けられている。俺の良く知る彼女の姿で、もう直接会うことが出来ないはずの…見ることが出来ないはずの姿だ。


「(待て、何故あり得ないんだ?)」


 それは──彼女の身体は失われているからと言う、俺の諦めだ。


「(何故、失われていると言える?)」


 諦め…それは“日常”の考えでの諦めだ。“日常”──俺の、彼女の居た世界での常識において、一度失った身体の再構築なんて不可能であることに対しての諦めだ。

 だが、それは“日常”においての常識であって、“非日常”においての常識ではない。

 つまり、失われた身体の再構築が可能である可能性は否定出来ない。


「なら…だとしたら」


 俺の中に居るはずの“彼女”は現在反応が無い。

 もしそれが、もう俺の中には居ない(・・・・・・・・・・)ということを意味しているのだとしたら…!


「まさか」


 もしかしたら──そんな縋るような仮定が浮かんだ。


「すぅ…はぁ…」


 深呼吸をすることで心を落ち着かせながら、カードキーを取り出す。

 ドアを開けた。

 良く良く考えれば、このカードキーが使える時点で俺の部屋であることは確定だ。


「(何を迷っていたんだ俺は…はぁ)」


 自嘲気味の笑いを浮かべながら部屋に入る。

 さっきは全力で現実を否定しかけたが、悩むぐらいなら答えを確認した方が早い。案ずるより産むが易し。

 部屋に入り、俺は現実を直視した。


「…何でさっきは私を見るなり、部屋を出て行ったの?」


 人の部屋に勝手に入っていた女性は、まるで子どもみたいに頬を膨らませていた。そして俺を見るなり、どこか知性を感じさせる声で話し掛けてきた。

 手入れの行き届いた紫紺の髪が、美しい女性だ。どこかで見たような制服から覗く肌はきめ細かく、病的とまでは言えないが白磁のように白い。身長は俺より頭一つぐらい小さいだろうか。

 特徴的だったのは、彼女のオッドアイ。

 左の瞳は、夜空を映し出したかのような紫。右の瞳は闇のような漆黒…。

 そう、左右対称。俺と反対の色なのだ。俺のオッドアイと。


「知影さん…。知影さん…なんだな?」


 もう疑問を抱く余地は無かった。

 眼前の女性は“彼女”──「神ヶ崎 知影」であることに。


「…私の姿、忘れてたの? ふふふっ♪ そう…あなたの知影さん…だよ」


 拗ねた表情から一転、どこか寂しそうな表情で俺を見詰めてくる彼女。

 ああ、間違い無い。知影さんだ。声は少し前まで聞こえていたはずだが、姿を見るのは…一週間振りぐらいか。

 何故だろうか。たったそれだけの期間であったのにも拘らず、何十年もかけて今、やっと再会出来たとでも言うのだろうか。

 言いたいことが沢山あるはずなのに、言葉が出てこない。


「……生きて…いたのか?」


 声が震えている。

 まるで、かつて存在した“日常”の幽霊でも見た気分だ。しかし俺と左右対称の瞳が、彼女もまた“非日常”に生きているのだと訴えてくる。


「え!? 何その言い方…。もう少し言い方あったんじゃないかな!?」


 違う、そんなんじゃない。

 俺が、俺が言いたかったのは、


「…あなたの知影さんはないと思うんだが」


 これも違う。

 何で訂正をするんだ俺…後でも良いだろう。

 俺が言いたいのは、ただ再び彼女と会えて……。


「弓弦君…え? え?」


「…っ」


 気が付くと俺は、泣いていた。

 理由は分からない。だが“彼女(知影さん)”が今、確かに自分の前に居るのだと確認出来たら、自然と溢れていた。

 我ながら情けないことこの上ない。

 だが、抑えられなかった。


「…何となく分かっていた…。きっとあの時知影さんが消えてしまったのは、俺の責任だ…。君を守れなかった…俺が…っ」


 だから、知影さんの声が初めて頭の中に響いた時……嬉しかった。

 それが俺の妄想が作り出した偽物の声だったとしても、嬉しかった。

 邪険に扱っているように見せながら、内心では不安のあまり思い焦がれていた。

 だから俺は、彼女の声が聞こえなくなってからと言うもの、どうにも落ち着かなかったのだろう。


「もう良いよ弓弦君。今君の前に、私は在るの…偽物じゃない、本物の知影…だから安心して? よしよし」


「……」


 掌の温もりが、温かくて。

 一度決壊した涙が留まる気配は、堪えても堪えようとし続けても一向に無かった。


* * *


「(…分かってた、分かっていたよ? その苦しみも、葛藤も…)」


 君がどんなことを考えていても、私にはお見通しだった。

だから励まそうとしても、かえって落ち込んでしまう弓弦を見ているのがもどかしかったんだ。

 独善的…だったのかもしれない。当たり前のように君の心を覗いて、喜んで、君が葛藤しているのを知っている裏で、自分のことばかり考えて…。無理に励まそうとしてしまった。これって独善だよね、絶対。

 君は、ただ受け止めてほしかったんだ。知らない世界への不安を、大切な人達を失ってしまった悲しみを。

 何もかもが変わってしまって、それを全部理解出来る程、君は強くはない。「まぁ良いか」と口にしながらも、心の奥底には虚無がある。


「(それでも全部受け止めようとして、一人ずっと耐えていた……)」


 結論からすれば、受け入れるしかない。帰る世界が無いのは事実だし、私達はもう“日常”に戻れない。

 どんなに物分かりが良くても、大人でも、本当に大切なものを失ってしまったら未練が無い訳がない。時間の流れが癒やしてくれるとは思うけど、それでも傷は早々に癒えない。

 “日常”から離れれば離れる程、簡単に適応出来ない。

 それが、空想と現実の違い。

 頭では分かっても、心の理解が追い付かない。

 私がどれだけ君のことを考えていても、結局は自分勝手に動いてしまうように。

 とんでもなく重い女かも。ふふふ。


「(だけど、そんな私の自分勝手すら…君はきっと受け入れてくれるんだよね……)」


「…あぁ、スッキリした! 泣くと気持ちが晴れるんだな!」


 まだ学生の彼、大人になれていない子ども。大人でも受け入れないことを、彼は受け入れようと足掻いている。

 だけど自分のことはお構い無しに、絶対私のことを受け止めてくれる。勝手な私を肯定してくれる。

 それが「橘 弓弦」。私が初めて好きになった人。

 私の感情を、動かしてくれた人。


「やっと、伝えられる…」


 感情が、私を動かしていた。

 勝手に動いた身体が彼の唇に、自分のを重ねる。 


「…っ!? ち、知影さん…?」


 私の中から“何か”が彼に流れ込み、彼の中から私の中へと、“何か”が流れ込んでくるのを感じた。

 これで私と彼の、『回路パス』が開いた。


「(あれ…。そんなことを…どこで……)」


 回路パス。簡単に言うと、心の通信回線。私が彼の心を覗けたように、彼も私の心を覗くことが出来るようになるみたい。

 降って湧いたような知識だ。こんな知識…今までどんな文献にも書かれていなかったはず…。

 でも、今は私の中で一つの知識として存在している。

 …これは、弓弦の知識? でも…だとしてもそんな知識をどこで……。


「(ん…考えが、読み合える?)」


 これって、もしかして夫婦?

 夫婦…だよね!? 夫婦になるんだよね!? キャ、キャ〜ッ!! 以心伝心…やだもう、何だか恥ずかしいよぉ…。


「さて弓弦君、私が今、何を考えているか分かるよね? 私のことを考えながら覗いてみてよ」


「…!? あ、あれはその…不可抗力だ…、それにご飯を一緒に食べていただけだから…っ!?」


 うん、成功。

 これで弓弦は、好きな時に私の心を覗けるようになった。もう、私だけが好きに覗ける訳じゃない。

 …さて、言われた通りに心を覗いてくれた弓弦は素直で可愛いし。よっ、私の旦那! って言いたいけど。

 それとこれとは、別なことがあった。


「折角私がサプライズで会いに行こうとしたのに、他の女とイチャイチャイチャイチャ…っ、会いたかったのに…っ」


 どれだけ苦しい思いをしたか…悲しい思いをしたか…分かってもらわなきゃ。

 通じ合ってこそ、理解し合ってこその夫婦だもんね…? フフフ…。


「悪かった」


 頭を下げる弓弦君。

 うん、素直なのは良いよ。良いのだけど。


「私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。私が聞きたいのは、別の言葉。分かるよね、分かってくれるよね? だ・ん・な・さ・ま♪」


「…う」


 早口で捲し立てると、弓弦は私の顔を見た。

 何を言ってくれるのだろうか。期待に応えてほしいので、敢えて心中は覗かない。


「…それは…だな……」


 弓弦の顔が、どんどん赤くなっていく。

 あぁ! その恥じらい、良い! 私が求めていたものの一つ! 最っ高!

 ささ、早く早く! 私に、私に愛の言葉を…!!


「(わくわく…♪)」


 だけど。


「…~っ」


 弓弦は真っ赤になって、真横に倒れた。

 バタン! と凄い音に、弾かれて。

 慌てて私は、彼の身体を抱き起こした。 


「え、弓弦君、弓弦君!?」


 身体を揺すってみるけど、当然起きる気配も無く。

 後もう少しで言ってくれそうだったのに、凄く残念だった。


「(でもそれでめげないのが、私)」


 これはこれで、好機。

 弓弦が気絶したこのチャンス、しっかりと活用してこそ女道。

 私は弓弦を持ち上げて、おもむろにベッドインさせるのでした。

「仲良いですわねぇ、あなた達」


「いえいえ、それ程でも…ありますよ?」


「…いや、言う程な気はするが」


「え、何それ。私これでもあなたの彼女なんですけどー。ぶーぶー」


「…俺が知る彼女は、もう少しお淑やかで…こう、クールな感じがしていたんだが。それに…あれはそもそも周りがはやし立てていただけだろう」


「はいそれ幻想! 弓弦君アレだけ家庭内が女社会なのに、どうしてそんな幻想を持てるのか…」


「まぁ。弓弦君の家庭は女社会でしたのね」


「…あぁ。両親に、姉が三人、妹と兄が一人ずつ。女の割合が多かったからな」


「…八人家族。凄い構成ですわね」


「夫婦仲が大変よろしかったからな。…お袋も親父も。家に居る時はいつも一緒だった」


「それは…素敵なご両親でしたのね」


「お金とか生活にも特に困ってないし、愛情深い二人の仲がとてもよろしかったら、子どもぐらいポンポンと出来ちゃうんだって」


「ま、まぁ……」


「…あのな、そんな身も蓋も無い言い方をしないでくれ」


「だから女は怖いんだよ」


「どうしてそうなる。…すぐに子ども作ろうとするから、とかが言いたいのか?」


「弓弦君…。女は皆、子作り脳だって考えているんだ」


「それは…よろしくありませんわね」


「これっぽっちも考えてないからなっ」


「皆子作りしたがってるとか、そんなこと考えているんでしょ?」


「どんな考え方だ…。その考え方を持っている奴は、最早可哀想だな」


「うう…っ。そんな可哀想な弓弦君に現実を教えるのも、彼女たる私の役目…っ! これも運命なのね…っ」


「…あー。取り敢えずお前が想像以上に可哀想な頭をしていると言うことは、良く分かるぞ。後俺は可哀想な奴だと思ってほしくないんだが」


「良い? 女ってのはね、君が思っている以上に汚いの。お手洗いに行くし、生理的現象は起こるし、行き遅れもする! そんなアイドルみたいなものじゃないんだから!」


「…聞いてないし」


「…ぅ。‘い、言いますわね…’」


「…リィルはショックを受けているし…。じゃあ何だ、要は何が言いたい。要は、これがありのままの私だから受け容れろ〜、みたいな話がしたいのか? 大分話が逸れてるが」


「う〜ん。こんな私だけど、正真正銘の彼女なんだから大切にしてほしいね♪ って話?」


「だから、彼女にしたつもりはないんだが…」


「私が勝手にそう思っているだけって寂しいじゃん! あんな…あんなに熱い抱擁もしたのにっ!」


「…あれは、事故だ」


「そうやって何でも事故事故って! 事故って言って済むのなら警察は要らないよ!」


「何でも事故とは言っていないが、警察は要るな。幾ら話しても埒が明かないから今すぐ出動してもらって、知影さんを連れて行ってほしいぐらいだ」


「酷っ」


「まぁまぁ…夫婦喧嘩は犬も食わないとは言いますし、ここまでしてほしいですわ」


「ちょ…っリィル押すなって…! 後、誰が夫婦だっ」


「夫婦…♡」


「ふんっ!」


「落とし穴だとッ!?」


「えっ、きゃあぁぁぁぁ──と見せかけて弓弦君の足をキャッチ♪」


「うぉっ!? 急に掴まるなっ! 足が…重いだろっ!」


「さて予告ですわ♪ 『狂気とは、時に凶器となる。凶器は心の隙間を抉り取り、正気を失わせる。ここに一人、正気を失いつつある男が居た。走馬灯のように想起される光景は、数時間前に起きた出来事の数々。口から零れ落ちる「元気」は、内に正気を内包する。今ここで、哀れな男の記憶を遡るとしよう──次回、悪魔 前編』…空は、青かった。…ふんっ」


「ぐっ!? 折角端に掴まって、落ちずに済んでるのに、ひ、人の手を踏むなっ!!」


「え、弓弦君の手を踏むとかあり得ない。退いて弓弦君、その人痛め付ける」


「だから足を引っ張るな! 落ちるだろっ!」


「え…恋に落ちちゃう? 落ちよ落ちよ♪ 私と一緒に恋に落ちよ♡」


「言ってないっ」


「ふんっ、ふんっ」


「うぉぉぉぉおおっ!? げ、んか…い…ッッ!」


「落ちよ落ちよ♪」


「ふんふんふんふんふんっっ!!」


「ぁ」


「あ♡」


「うわぁぁぁぁぁああ゛゛っっ!!!!」

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