電話(1)
片山家の電話が鳴った。
父は大阪に出張、母は今日から婦人会の旅行に二泊三日で行っている。
弟の浩志はまだ学校から帰っていない。学校帰りに、何時もそのままバイトに行っている為、遅くなると夕飯も済ませて帰ってくる。今日は、確か遅い日だった。
志穂は、由美子の見舞いから帰って、部屋で音楽を聴きながら宿題をしていたが、曲と曲の間の数秒間に電話の音が聞こえて顔を上げた。
窓の外は、何時の間にか真っ暗な闇に包まれていて、窓ガラスに映る自分の姿を見て、一瞬ギョッとした。
そう言えば、今この家にいるのは自分だけだ。
彼女は仕方なく電話を取る為に、部屋を出て階段を下りながら
「二階にも電話付けてよね」と思わず呟く。
私用の電話は大抵、携帯にかかってくるので、父か母宛だろうと思うと思わず居留守を使いたくなる。
「はい、片山です」
受話器を取ると、静まった空気が受話器から流れ出てくるような、そんな感じがした。
微かな息遣いが聞こえる。
悪戯かと思いながら、志穂は思わず耳を澄ました。
聞こえてくるのは静かな息遣いだった。深く吸って、深く吐いているような。
「もしもし?」
志穂は受話器に向かって言った。
ザーッと、テレビの砂嵐のようなノイズが突然聞こえて、志穂は思わず受話器から耳を離す。耳を離しても、そのノイズは十分に聞こえて来た。
「なに、これ…… 故障?」
志穂が受話器を置こうとした時、ノイズ音が消えた。彼女は受話器を置くのを止め、念のため、再び受話器を耳元に当てて
「もしもし?」
さっきと同じようなノイズが、しかし、物凄く微かな音で続いていた。
志穂は何故かその音にじっと耳を澄ました。
耳を澄ましたくなるような、何とも言えない曖昧な、そして、小さい音だった。
その向こうには、何処までも続く果てしなく荒涼とした暗闇が広がっているような、それを何とか遠くまで見渡そうとする自分がいるような、そんな不思議な感覚に志穂は落ちていった。
誰もいない家の中は、水を打ったように静まり返って、彼女の頭の中が受話器から聞こえるノイズに侵食されていくようだった。
そのうち、プツ………プツ………と言った感じの、ラジオの雑音のような、違うノイズが混ざり出した。
志穂の意識は更に、電話の向こうの見えない闇の音に引き込まれて行った。
「シホ……」
ノイズに混じって微かに声が聞こえた。弱々しく、切ない響きだった。
その瞬間、静まった空気が凍りつくような気がして、志穂は全身に鳥肌がたった。
「だれ?」
「ツーツーツーツーツー……………………」
途端に電話は切れた。
志穂は思わず手に持った受話器を見つめ、もう一度耳に当てたが、プーと言う普通の信号音が聞こえるだけだった。手はしっとりと汗で湿っていた。
ガチャリッと突然正面の玄関ドアが開いて、志穂は飛び上がるほど驚いて、
「ヒッ!」
と、声にならない悲鳴を上げた。
本当に恐怖に引き攣った時、とっさに「キャー」と言う声はなかなか出ないものだ。
「ただいま…… どうしたの、姉貴」
引き攣った顔のまま、受話器を握り締めて固まっている姉の姿を見て、浩志が言った。