訪問者(2)
志穂は午後から美容院へ行こうと決めていた。だいたい夜とかに急に髪を切りたくなって、一度そう思ったら我慢できずに翌日には切りに行く。
昨晩の奇妙な出来事は腑に落ちないが、とりあえず今日は髪を切ろうと決めていた。
彼女は玄関を出て、ふと足を止めた。
玄関のドアから出て直ぐのところに、小さなキーホルダーが落ちていた。
携帯ストラップではなく、少し古い、小さな青色をした熊の付いたキーホルダーだった。
志穂はつまんで拾い上げてみる。
テディーベアの類であろう、そのキーホルダーに付いた熊は、耳や肩の部分が少し磨り減っていた。
志穂は、それをじっと見つめた。何処かで見覚えがあったのだ。
誰かが、同じものを着けていた気がする。何処で見たのだろう。
里美じゃないし、由美子でもない、玲子のはずはない。彼女はもっと値の張るものしか身に着けない。と、いろいろ考えた。
それとも、今朝、チャイムを鳴らした人の落し物だろうか。自分の知り合いなら、何故、チャイムだけ鳴らしていなくなったのだろう。
「ま、いいか」
志穂は呟きながら、とりあえずキーホルダーをポケットに入れて、自転車で美容院へ出かけた。
その夜は、十月に入ったと言うのに妙に蒸し暑くて、志穂の部屋の窓は開いていた。ガラス戸は開けているが、習慣で網戸は閉めてある。
夏のような生温い風が窓から入り込んでいたが、昨晩少し寝不足のせいもあってか、志穂は普通に眠りについていた。
しかし、真夜中にふと目が覚めた。部屋の中に焼香の匂いが漂っていた。志穂は窓が開いているせいだと思い、窓を閉めて再び布団に潜り込んだ。
そこで、ふと思った。
何故、この次期のこんな時間に線香の匂いがするのだろう。先日埋葬されたお墓に、誰かがお線香を上げに来ているのだろうか……こんな夜中に?
そう言えば、昨日も。
志穂は昨夜の出来事を思い出してしまった。
彼女は夜中に目が覚めると、何時もろくな事が無い。だから、今夜も妙な不安にかられていた。
時計を見ると、二時十分だった。嫌な予感がした。
自然と闇の静けさに耳を澄ます。やっぱり聞こえる虫の鳴き声。それがコオロギなのか鈴虫なのか志穂には判らなかった。
すると、階段を上って来る足音が聞こえた。
まただ…… 志穂は、昨夜のあの足音だと直ぐに気付いた。
足音は階段を上り切って、廊下を歩いて近づいて来た。やはり、浩志の部屋を通り越し志穂の部屋の前で止まった。
志穂は布団の縁を強く掴んだ。
「だれ?」
彼女は普段出さないか細い声で言ったが、ドアの向こうには届きそうに無かった。
「誰なの?」
志穂は再び、今度は普通に大きな声が出た。
大きいと言ってもそれは、学校で友達と騒いでいる時の声には遠く及ばなかった。しかし、この時の精一杯の声だ。
そして、ベッドから起き上がり百科事典を一冊手に取り、ドアに近づいた。
木刀や金属バットのような手頃な武器が見つからなかった為、厚くて硬い事典を手に取ったのだ。これだって角で殴ればそうとう痛いし、相手がナイフを持っていても防御も出来る。志穂はそう考えた。
ドアの手前に立つと、その向こうには、まだ気配を感じた。
志穂は一息つくと思い切ってドアノブを掴んだ。そのとたん、ドアノブが外から回されドアが押し開かれた。
「キャッ」
意表をつかれて開いたドアに、志穂はビックリして、しかし、しっかりと事典を振りかぶった。
「俺だよ!」
「あ……」
ドアを開けたのは、弟の浩志だった。百科事典で殴られては敵わんと身構えている。
「何よ、あんた」
「何よじゃないよ。姉貴が何か叫んでいるのが聞こえたから見に来てやったのに」
「あんたね。悪戯してたのは」
「なんだよ、いきなり。俺だって寝てたんだぜ」
浩志は寝癖の付いた頭で不機嫌に言った。
志穂は浩志の足元に視線を落とす。と、彼は素足のままだった。
「今、階段上って来たの、あんたじゃないの?」
「俺は、姉貴の声を聞いて、隣の部屋から来たんだよ」
「じゃぁ、ここに誰かいなかった?」
「誰かって?」
「それを、訊いてるんじゃない」
志穂は少し苛立ちながら、重い事典を床に置いた。
「俺が部屋から出た時は誰もいなかったし、逃げていった気配も無かったぜ。それに、玄関の戸締りだってちゃんとしてあるだろ」
浩志は志穂を馬鹿にしたように笑うと
「外からは、誰も入れないよ」
志穂は、何がなんだか判らずに、釈然としなかった。
「頼むぜ、姉貴。寝ぼけるなら、静かにやってくれよ」
浩志はそう言いながら、頭をボリボリとかいて、隣にある自分の部屋に戻って行った。
志穂は浩志を無言で見送った後、ドアを閉めようとして、その動作を止めた。
廊下に何か落ちている。暗くてよく判らなかったが、拾い上げてみると昼間に玄関で拾ったものと同じ熊のキーホルダーだった。
志穂は、昼間に着ていた上着のポケットを探ってみた。
「無い……」
自分で廊下に落としてしまったのだろうか……
志穂にはどうも納得がいかなかったが、とりあえず明日、いや、もう今日だが、学校もあるのでキーホルダーは机の上に置き、そのままベッドに入って眠った。
彼女は気付かなかったが、部屋の中は、もう焼香の匂いはしていなかった。