訪問者(1)
その夜、志穂は何となく寝付けなかった。十二時過ぎにはベッドに入ったのだが、ウトウトはするものの、何故か眠りに入れないまま時間が過ぎた。
こんな事は滅多に無い。志穂はどちらかと言うと、寝付きがよく、大して眠くなくても、夜、布団に入って眼を瞑っていれば何時の間にか眠ってしまうのが普通だった。
ベッドサイドの棚に在る目覚まし時計を見ると、深夜二時十分になるところだった。
静まり返った夜の空気だけが彼女を包んでいた。
普段寝ている時間に、目的も無く一人で起きているのは、非常に心細かった。
窓の外から微かに聞こえる虫の音が、何故かいっそう心細さに拍車をかける。
その時、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえた。
浩志のやつ、今頃帰って来たのかしら。
足音は階段を上り切って一端止まったかと思うと、再び鳴り出して廊下を歩いていた。
志穂はハッとした。その足音は、スリッパにしてはゴツゴツと硬く、はっきりとしている。 勿論素足なら、ほとんど足音はしない。しかし、この音は、まるで廊下を靴のまま歩いているようだった。その音は、
静まり返った廊下にはっきりと響いている。
階段を上ってくると、浩志の部屋が手前にある。足音は、そこを取り越して、志穂の部屋の前まで来て止まった。
ドアの向こうに物凄い気配がある。
普段、自分を呼びに来た時の母や浩志にだって、こんな強い気配を感じた事はない。それとも、深夜の止まった空気が、その気配を敏感に伝えるのだろうか。
志穂の身体は硬直していた。心臓の音だけが、自分の身体を通して耳の奥で鳴り響いていた。
何か、得体の知れない恐怖が彼女を襲い、ドアの外に向かって声を掛ける事ができなかった。
それは、穂のかに焼香の匂いが漂ってきたからだと、彼女自身判っていた。
志穂は、布団に包まったまま、ドアの向こうの気配をじっと見つめた。
ドアの向こうでは、じっと押し黙ったまま動く様子もない。
相変わらず耳の奥で鳴り響く心臓の鼓動だけが聞こえた。それはまるで、うさぎの心臓のように速く叩かれていた。
しばらく、いや、間も無くだろうか。志穂にはその時間が、どのくらいだったのか全く計り知れなかった。小一時間にも感じられたし、ほんの数秒だったのかもしれない。
ドアの向こうの気配は、再び廊下を歩いて遠ざかり、階段を下りて行った。
志穂は全身に冷たい汗を感じながら、腕の鳥肌を片一方の手で擦った。
朝目が覚めると、何も変らない何時もの部屋の風景に、志穂は少しだけホッとした。
深夜の出来事は夢だったのだろうか。志穂は何時の間にか眠っていた為、記憶が混乱した。
「ねぇ、浩志。昨日何時ごろ帰った?」
日曜にしても遅く起きた志穂は、珍しく先に朝食を食べていた弟の浩志に向かって訊いた。
「十二時半くらいかな。何で?」
浩志は不思議そうに応えた。
「そう。うん、別に……」
志穂は肯きながら、今度は文江に向かって
「お母さん、昨日のお墓に来た人達って、近所の人?」
「さぁね、この辺の人なら、お葬式もやるから判ると思うんだけど」
ここ数日、この周辺での葬儀は心当たりが無かった。
「どうしたの?」
文江が怪訝な顔をしている。
「うん、別に……」そう言った後、志穂は少しだけ考える顔を見せて
「お母さん、昨夜あたしの部屋に来た?」
「行ってないわ」
「そう」
志穂は、やっぱり、と思いながら、トーストを齧った。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あら、日曜日に誰かしら?」
三人は思わず顔を見合わせたが、流しで立っている文江が玄関へ向かう。
「宗教の勧誘じゃないの」
母親の背中に向かって浩志が言った。
文江は直ぐに戻ってきた。
コーヒーを片手に浩志が「何だった?」
「誰もいなかったわ」
文江はそう言って、流しで洗い物の続きをしながら「きっと、悪戯ね」
「お父さんは?」
「ゴルフ」
「またぁ」
志穂はそう言ってカップのコーヒーを飲み干した。
「いいじゃん、別に」
と立ち上がって二階へ行こうとした浩志に向かって志穂は
「あんた、またゲーム」
「おくつき」って何だ?って思う方がいるかもしれません……後半に出てきますので、お待ちください。辞書にも載っていますけどね。