記憶(2)
翌日は雨も上がって晴れ渡る秋の空が広がっていたが、九月も末になると、さすがに朝晩は肌寒い。
土曜日で学校が休みという事もあり、志穂は遅い時間に目が覚めた。本当はもう少し眠っていたかったが、何となく焼香の匂いで目が覚めたのだ。
着替えて部屋を出ると、廊下はいっそう香の匂いが立ち込めていた。
これは残り香などではない。誰かがお墓で線香を焚いているのだ。お彼岸はもう終わったはずだが。
ここへ引っ越して五年、裏手に新しいお墓が建った事は無い。
古い墓地の為、既に新しい墓を立てる場所が無いのだ。少なくても志穂を含めこの家の住人はそう思っていた。
比較的端に近い場所のお墓は、今風の御影石の表面をつるつるに磨き上げた立派なものだが、内側に入るにしたがってその様子は古くなり、手で削ったような墓石も沢山ある。
もっと奥に入ると、ただの四角っぽい石に文字を彫っただけのお墓もあり、名前は風化して既に消えかけている。
奥の一画には無縁仏もあり、薄っすらと何かが書いてある文字は、全く読めない。
墓地は百メートルくらい続いていて、林の向こうには小さな神社があり、その周りには、幾つかの馬のお墓が在る。昔、馬場だった為なのだと言うが、江戸時代の話だそうだ。
神社の向こうは竹林になっていて、その先には古いお寺が在る。そのお寺も江戸時代から在るそうだが、お寺の住職は新型のベンツに乗っていた。
廊下に出た志穂は、階段の方へ向けた身体を一端止めた。
洗面台の横の窓が少し開いていたのだ。
誰が開けたんだろう…… ここ三年くらいは、殆ど鍵さえ開けたことが無い。
あの晩、あの窓から見た光景は、思い出したくもなかったから。
そう、あの時は昨日のような小雨が降り続いていた。
彼女が中学三年生だった夏。蒸し暑く寝苦しい夜だった。
夜中に目が覚めた志穂は、トイレに行こうと起き上がり部屋を出た。
眠る直前までクーラーを効かせていた部屋とは違って、廊下に出た途端、ムッとした生温い空気が身体を呑込んだ。
ぽつぽつという、木の葉や雑草に水滴の当たる音が、外から聞こえていた。トイレの横の窓が少し開いていて、雨音に混じってぼそぼそと言う低い話し声が聞こえてきた為、志穂は思わず立ち止まった。
おもてから声が聞こえる。こんな夜中に。
志穂は細く開いた窓から外を覗いた。墓地の殆どが見えた。
この天気の中、まるで月明かりが差し込んでいるように薄っすら青白い不思議な明るさの遠くに人影が見える。
それは一人ではない。四〜五人はいる。墓地の中央よりも志穂の家から見て奥の方だ。
何だろう…… 志穂は目を細めて見入った。
人影は白くぼやけた輪郭ではっきりとしないが、暗闇の中でもそれが人の形をしている事はわかった。軍服のようなモノを着ているようにも見える。
三人は志穂に背を向けるようにして一箇所に固まっているが、何人かは辺りを歩き回っている。
志穂は、その歩き回っている人影に注意がいった。
何かおかしい。動き回る人影を視線が追う。
何が変なのだろう。どうも人が歩いているにしては不自然だ。いったい何が……
志穂はハッとした。
上下動が無い。そうだ、人が足を動かして歩く時、膝が曲がったり伸びたりする為に必ず頭が上下に揺れる。それが全くないのだ。だからおかしいのだ。
そう、スケボーやキックボードで移動していればあんな動きになるかもしれない。しかし、確かあの辺りは土と砂利のはずだ。
手前に連なる墓石の影で、歩き回る人影の腰から下は見えなかった。
こんな雨の降る真夜中に、いったい何をしているのか。志穂の好奇心は、開いた窓から目が離せなかった。
三人固まっていた場所に、さらに一人が近づいた。
真ん中の一人が両脇の二人に促される、と言うよりは無理やり跪かされた感じに見えた。そして、右側に立っていた一人が腰に手を当てると、鈍く光る長いものを素早く抜き取って上段に構えた。
「何?」志穂は、窓の隙間に頬が潰れるほどに顔を寄せた。
刀?軍人が刀を持っているの?
志穂は、前に歴史の教科書で見た、昔の軍人の写真を思い出した。軍服の腰に提げられた長い軍刀。昭和初期、いや大正か明治時代だろうか。
心臓が激しく胸を叩いていた。薄手のパジャマの、ボタンで留まった胸の合わせ目が、小刻みに振動しているのが判るほどだった。
次の瞬間、上段に構えた刀は両手で振り下ろされ、墓石の黒い影から少しだけ見えていた、跪いた人間の頭がポロリと落ちて消えた。
「ヒッ!」
志穂は、息を呑み込むような小さな悲鳴を上げ、とっさに手で口を抑えた。
その時だった。一箇所に集まっていた中の一人が振り返って志穂を見た。いや、たまたまこちら側に頭が動いただけなのかもしれない。しかし、確かに五十メートル以上離れた距離からじっと志穂を見つめたのだ。
彼女はとっさに窓から顔を離した勢いで、後にひっくり返って尻餅をついた。
「痛っ」
振り返って志穂を見つめた顔は、右半分がぼろぼろに欠損していた。
光の加減でそう見えたのか。いや違う、だって、右目が無かった。ただの空洞で、真っ黒で、左の目だけがギラリとあたしを見つめた。
アレは何?人ではない。
志穂は混乱する頭の中で自問自答した。
墓地をうろつく人間のようで、しかし人で無いモノ……
こっちを見た。顔を見られた…… まさか、あの距離から細く開いた窓を覗いたあたしの顔が見えるわけが無い。
志穂の全身がガタガタと音をたてて震えた。下あごの震えが、カチカチと歯を鳴らした。
もう一度確かめようか。いや、まだあの男がこちらを見ているかも知れない。
志穂は顔を窓から少し離して外の様子を覗いた。
相変わらずパタパタと木々の葉を叩く雨音と、雨樋を伝った水が排水溝へ細く流れ込む音が聞こえる。
目を凝らす。が何も見えない。
さっきよりもずっと暗い、ただの闇が広がっているだけだ。墓石と草木の黒い陰が微かにみえる。
こんな暗闇で、さっきは人影がくっきりと見えた。いや、本当なら見えるはずがない。右目が在るか無いかなど見えるわけがないのだ。
志穂の額には冷たい汗が流れていた。
後になって考えた時、白い人影がどうして軍服を着ていると判ったのか? あの距離で話し声が聞こえるか?
片目の無い事が見て判るだろうか? 自分でもいろいろ疑問が湧いたが、とにかくそんな事があってから、志穂は一度も墓地へは足を踏み入れていないし、二階の窓から墓地を覗いた事も無く、鍵も掛けたままだった。




