暗闇
その夜、眠っているはずの志穂は焼香の香りを感じていた。
「まただ……」志穂は眠りの中で思った。
目を覚ましたわけではない。しかし、はっきりと線香の匂いがした。レム睡眠とノンレム睡眠の切り替えが起こったのかもしれない。意識が目覚めそうで、しかし目覚めない。そこから深いまどろみに落ちてゆく。
暗闇に包まれて広い大通りが見える。辺りは寒々とするほど殺風景で、あちこちに水銀灯の明かりが見える。四角い大きな黒い山は、何かが積み上げられているようだ。
微かな汐の香りは海が近いのだろうか。何かの事務所のような小さな建物が見えるが、ブラインドウが閉められ、明かりはついていない。
直ぐ横に立つポールの先に、大きな時計が見えた。
グリーンの照明に浮き出るような文字盤のアナログ時計だ。よく最近の駅のホームにあるものとよく似ている。
志穂は目を細めてそれを見つめる。時計の針は二時五分を指していた。この暗さ、この静けさから考えても、深夜の時間だろう。
ここはいったい……
静けさの中から何かが聞こえて来た。目の前がフラッシュライトで照らされたように眩しい光で包まれた。
志穂は思わず目を細めるが、光の中に何かが見えた。
「千絵………」
直ぐ隣に誰かがいる。柴田だ……
「先生、どうしよう」
「大丈夫だ、心配するな」
「でも、三カ月だって」
「お母さんには話したかい?」
「言えるわけないよ」
「そうか、そうだな。しばらく黙っていた方がいい」
「あたし、不安で。先生、産んでもいい?」
「千絵がそうしたいなら、僕が責任をとろう」
「ほんと?」
「ああ、だから、何も心配はいらないよ」
柴田が優しい笑みを浮かべながら、千絵を抱き寄せる姿が光の中に映し出されていた。
光は一端消え、暗闇が広がる。さっきの道路の風景が薄っすらと浮かんできた時、再び発した光が志穂の目の前を覆い千絵の姿が浮び上った。
「千絵!」
柴田が千絵の首を紐のようなもので絞めている。いったい何が起きたのか……
とにかく助けなきゃ。
志穂は足を踏み出して身体を前に進める。が、光の中の千絵と柴田との距離は変らなかった。
「どうなってるの? 千絵!」
千絵はもがいて暴れていた。彼女の首筋に紐が喰い込んで、肌にシワが寄っている。
柴田の顔……それは、戸惑いと焦りが混濁しながらも、悲しみと憎悪に満ちたような恐ろしい形相。
志穂が見た事も無い彼の顔だった。
千絵は大きく暴れて、足を上げて柴田の身体を蹴飛ばした。その時、彼の手が千絵の首から離れた。
一瞬の隙を突いて彼女は車から飛び出した。
志穂はそれが車の中で起きていた事だと初めて気づいた。
千絵が志穂に向かって走って来た。
「千絵!」
志穂は思わず両手を前に突き出した。
千絵が自分の腕の中に飛び込んで来るような気がしたのだ。
眩しい光が消えた。しかし、後には柴田の運転する車のヘッドライトが迫っていた。
息を切らして走る千絵の顔がはっきりと見えた。
必死だ。何とかして、どうにかして彼女を助けたい。
千絵は無我夢中で走っていた。景色も流れているのに、志穂と千絵の距離は一向に縮まらなかった。
「千絵、ここまで来て。早く!早く!」
志穂は叫んだ。それが千絵に届いているかは判らない。
縮まらなかった距離が急に接近した。
あと少し、もう少しで彼女に手が届く。
「千絵!」
「志穂」彼女は確かにそう声に出した。
その小さな呟きのような声は志穂の耳にも届いていた。
千絵の身体に志穂の手がもう少しで触れる、あと少しで抱き留められるというその瞬間、後から千絵の身体が跳ね飛ばされた。
柴田の車が跳ね飛ばしたのだ。志穂も一緒に弾き飛ばされた。
彼女には訳が判らなかった。
身体が浮き上がった。しかし、痛みはなかった。
千絵は大きく弾き飛ばされたまま、その勢いでガードレールに全身をぶつけ、人形のように転がった。
千絵の頭部から流れ出た真っ黒い血溜まりが、水銀灯に照らされてみるみる広がっていく。
志穂はフカンの視点で千絵を見下ろしたまま身動きが取れなかった。
さっき見た大きな時計の針は、二時十分を指していた。
柴田の車が長い直線道路を走り去り、右に曲がって消えた。そして、またフラッシュのような激しく眩しい光。
手で顔を覆う事が出来ない。まるで、身体が無いようだ。
目の前の眩しい光は点滅を始めた。
「もうやめて。あたし、どうすればいいの?」
志穂は叫んでいるつもりでも、声は出ていなかった。
ライトの点滅が次第に早くなって、その光が突然消えると、そこは何も無い闇だけが広がっていた。
自分が何処に立っているのか、周りに何があるのか、空はどうなっているのか、外なのか室内なのかさえわからない。
そもそも自分は本当に何処かに立っているのだろうか……地面を踏んでいる感覚が無い。
漆黒の闇で自分の身体さえ見えはしない。
焼香の臭いが強くなって、まるで目の前で線香を焚かれているようだった。
もしかして自分も死んでしまったのか。知らぬ間に死んで、自分では理解できないでいるのだろうか。
焼香の煙が勢いを増して、やたらと煙たくて目が痛くて、咳き込んで……
志穂はひどく咳き込みながら不意に目を見開いた。
何も無い闇は消え、目の前には見慣れた風景。自分の部屋だ。目が覚めたのだ。カーテンの隙間から細く光が差し込んでいる。
「夢だ……………あたしは死んでない」
志穂が自分の顔に手を当てると、頬を伝った涙の跡がまだ濡れていた。
その涙が、線香の煙たさで出たものなのか、千絵の死をみて流れたものなのか、彼女には判らなかった。
それとも、自分が生きていたと認識してから流した歓喜の涙なのだろうか。