教師
星が瞬くような晴れ渡る夜空の下、深夜の三時になろうとしていた。
大通りの真ん中に、警察車両の事故処理用のバンが止まっていて、車の屋根に装備された電光掲示板には「事故処理中」という文字が発光していた。
「妙ですよね」
事故現場に駆けつけた交通課の杉本巡査が言った。
運転していた男は既に救急車で運ばれて、大破した車だけが現場に取り残されていた。
「エアバッグの故障はともかく、シートベルトが切れるなんて」
同じく交通課の斉藤は巡査部長だ。
事故車のシートベルトは鋭利なもので切られたのでは無く、千切れたような切れ方をしていた。通りかかった者からの通報で駆けつけた警察官が見たものは、フロントガラスを突き破った運転手の姿と、切れたシートベルト。
ベルトを装着する留め具はしっかりとハマッたままだったそうだ。
「事故の衝撃で切れたんでしょうか?」
杉本巡査が言った。
それを聞いた斉藤は
「さっき車検証を見たが、六ヶ月点検が終わったばかりの新車だぞ。そんなことありえない」
「運転していたのは学校の先生らしいです」
「教師?」
「坂町巡査の息子さんが通う学校で、見覚えがあると言っていました」
「何時ごろ起きた事故か判るか?」
斉藤は書類を捲りながら訊いた。
「彼の腕時計が、二時十分で止まっていたそうです。おそらく、事故の衝撃で時計が止まったと思われます」
杉本巡査は、到着したレッカー車に手を上げながら
「シートベルトが切れなければ助かったでしょうね」
「そうだな。最近の車は安全基準が高い」
斉藤は運転席の大きく歪んだハンドルと、頭の形に穴の開いたフロントガラスを交互に見つめて言った。
その日、志穂が学校に着いた時、教室の中は既にその話題でもち切りだった。
「ねぇ、聞いた?英語の柴田」
自分の机に着いた志穂に、里美が直ぐに声を掛けて来た。
「柴田がどうしたの?」
「事故で死んだって」
里美の話し方は、少しだけ気の毒がっている表情をしていたが、好奇心に満ちていた。
「事故って?」
「交通事故。直線の道路でいきなり中央分離帯にぶつかったんだって」
柴田は見通しの良い大通りの直線で、中央分離帯に激突して、車は大破し本人は即死した。
「エアバッグが開かずに、しかもシートベルトが切れてたんだって」
「そんな事ってあるの?」
志穂は車を運転するわけではないのでそんなことに詳しいはずも無いが、父親の車に乗った時に、装着するシートベルトがそう簡単に切れそうもない事ぐらいは知っていた。
柴田が授業を受け持つクラスには担任教師から説明があり、彼の死を実感した。
朝のニュースで見た者、新聞で読んだ者と、話題の根源は様々だったが、直に同僚の教師の口から聞く事が、何よりも真実味があったのだ。ただ、シートベルトが切れていた事については語られなかった。その話は何処から来たのか。
事は簡単で、事故処理にあたった警官の一人が、隣のクラスにいる生徒の父親だったのだ。
警察官を職に持つ者は普段、自宅で仕事場の話は殆どしないそうだが、それだけ今回の事故を不可解に感じたのだろう。
放課後、志穂はクラス委員の由美子に付き合って資料室に行った時、職員室の前で見知らぬ男を見かけた。
「ご苦労さまでした」と学年主任と教頭が頭を下げていた。
「いえ、不幸な事故だったと思います」
見知らぬ男もどうやらその喋り方から、教員らしい事がうかがえた。
「あの人、何だろう」
志穂は何気なく由美子に訊いた。
「ああ、成田高校からお悔やみに来たみたいよ」
「お悔やみ?」
「柴田でしょ」
「柴田って、成田高校から来たの?」
「確か春に就任した時、そう紹介されたわよ」
「世田谷の?」
「そうだったと思うけど」
由美子は怪訝な顔を浮かべ
「それが、どうかしたの?」
「ううん。別に」と志穂は応えておいた。
世田谷の成田高校は確か千絵がいた学校だ。もっと早く知っていたら、いや赴任して来た時の紹介をちゃんと聞いていなかった自分が悪いのだ。でも、千絵の事を訊いてみたかった……何か知っていたかもしれないのに。
そう考えると志穂は、柴田の死が急に悔やまれるものに感じるのだった。