忍者かってる
幸い、そのマンションはオートロックではなかった。
彼女の姿がドアの向こうに消えるのを確認し、念のため郵便受けからハガキを見つけて宛名を確認する。
『八條 若葉』
恋焦がれたその人の名に、思わず頬がゆるんだ。
間違いない。これで、ずっときみを見守っていられるね。ごめんね、見つけるのに時間がかかってしまった。若葉ちゃんはいつも早足で帰ってしまうから。
ああ。でもついに、きみの…!
「不貞の輩め…申し開きはあるか」
背後で声がして心臓がはねあがった。思わずハガキをとり落とし振り返る、が、誰もいない。空耳、か、監視カメラでもついている…?見られた?
離れなければ。
そう思って足を出そうとした瞬間、世界が暗転した。
◇
「あれは俗にいうストーカーなどという者でございましょう」
「そうですかぁ。それでその人は?」
「身元を押さえた上で公園に置いてまいりました。もう来ることもないと思いますが、警戒は怠らぬよう願います」
煌煌と明るい、先ほどのマンションの一室、こたつのなか。
二十歳になるかならないかの女がひとり、夕食をとりながらテレビに向かって話していた。
それに返事をしているのはもちろんテレビではなく。
「晩ごはん一緒に食べませんかぁ?」
「!いえっ私…影の者にござりますれば」
「でも、ひとりで食べるのさみしいですし」
あまったるい台詞を無表情で、女は話す。視線はあくまでテレビに向けたまま。
この女が先のストーカーの想い人、であった。
しかしこうしてひとりつましく夕飯をとる姿はそう人目をひくような容姿には思えず、平平凡凡、無表情が地味な顔立ちを一層味気無く見せている。家にいるときのこの彼女の姿を見ればストーカーも目が醒めるのではないか…と会話の相手は思うのだが。
そんな彼女の相伴の誘いに応えて、会話相手が姿を見せた。クローゼットがわずかに開くように見えた、と思ったのは一瞬で、気付いたときにはすでに女の脇にはその男が控えていた。女に勧められて、再び謙遜と問答を経た後にこたつに入る、心持ち緊張気味のその男はどこからどうみても、…忍者。
黒い頭巾に黒い装束、首には黒いスカーフ。
まさに忍者のテンプレートのような姿を女性にしてはシンプルな部屋に晒し、周囲の家電家具からは浮きまくっている。怪しすぎる。顔の下半分は布で隠されているために表情はわからないが、この男、ふざけているわけでもコスプレイヤーなわけでもなく、まっとうな(?)忍者なのであった。
相変わらず視線がテレビのままの若葉のそばで、忍者はただ座って若葉の食べる様子を見ていた。
この忍者の、現在の主は若葉。別段要人でも名家の生まれでもない彼女に敵などあるはずもなく、忍者の仕事は専ら彼女の世話係になってしまっていた。ときどき現れるストーカーだけが、忍者に忍者らしい仕事をさせてくれる。
そういうわけで、この夕飯も忍者の仕度したものだった。味付けはほどよいか、好き嫌いはないか…などなど、いつも気付かれぬ程度に主の食事風景を観察しているのである。
そうやっていつもは静かに観察されている若葉が、今日は思い出したようにぽつりと言った。
「そーいえば…明日は彼氏が来るので夕飯は用意しなくていいです」
言ってまたもぐもぐと箸を運ぶ。飲み込む前に、返事がないのを不審に思ったのか忍者のほうを振り向く。
「えー…聞こえましたぁ?」
「はい。承知いたしました」
軽く頭を下げて応じる。それっきり、食卓に会話はなかった。
◇
若葉はそこそこもてる。彼氏が家にやってくるのもそう珍しいことではなかった。
深夜、若葉が寝入ってから、再び闇に潜んだ忍者は考える。
先月までよく来ていた男とは別れたはずだ。そう電話で話していたのを聞いた。新しい男がどのようなものか…それから明日すべき掃除や片付けの手順を組み立て、忍者も浅い眠りについた。
完璧に磨かれた台所。塵ひとつない玄関。まだ残っていた二本目の歯ブラシも処分しておいた。 そして、いつもより早い時間に若葉が帰ってくる。…のを、いつもと変わらず闇に隠れて忍者は迎える。
鍵の開く音がして、若葉の声、続いて男の声がした。前の男よりはかすれた、色気のある声だ。
「すごい、全然散らかってないじゃないですか!ぴかぴか!先輩、掃除得意なんですね」
「ありがとー、でも違うよぉ。ときどきお母さんが来てね、やってくれるから…」
闇で二人の声を聞く。ふん。もっと褒めろ――と思う忍者は部屋に男が入ってくるのを気配を殺し待った。
どうやら年下らしい。頼り甲斐がないのではなかろうか。ただでさえ男は子どもっぽい生き物であるのに年下なら尚更。甘ったれのガキなんぞを若葉の伴侶に迎えることはあってはならないのだ。
「じゃあ、こたつにでも入っててー」
「はいっ。お邪魔しまーす」
電気がついた。滅多に忍者が聞くことのない、よそ行きの甘い若葉の声が部屋に響く。わずかな隙間から二人の姿が見えた。
暗い色のミディアムボブがふわりと巻かれて、外気に触れた赤い頬を包む。くるっと上を向く愛らしいまつ毛、柔和に描かれた眉、つやつやとしたくちびる。外出用メイクに包まれた若葉が、男に満面の笑みを振り撒いていた。普段の地味な印象からは考えられないほど、その表情は愛嬌に溢れている。
十人並の容姿を持つ若葉の、特筆すべき化粧の腕前と化粧映えする地味な素顔。それが、若葉の絶えない恋人とストーカーの理由だった。
いつもなら帰って早々に化粧を落としてしまうので、忍者は久しぶりにその顔をじっくりと見ることが出来た。なにを隠そう、このメイクの技術も忍者の伝授したものである。
人相を変える術は忍者のお手の物。出会ったころも化粧で別人になっていた若葉だったが、忍者の指導でそれは輝きを増した。うっとりとするような出来栄えに忍者が目を細めていると、
「コート預かるね」
若葉が忍者の潜むクローゼットを開けた。若葉の甘い香りが忍者の鼻をつく。ちらりと、若葉が暗がりに目をやった。目が合う。よそ行きの笑顔がはらりと剥がれ、普段のやる気のない笑みが浮かんだ。若葉は洋服をしまいクローゼットを閉めた。
その隙に男の姿が見えた。背が高い。髪の長さは中程度、よくいる若者といった風体だ。目を細めた笑顔がひとなつっこい。その笑顔をきっちりと記憶した。
「じゃーごはん作るね」
「手伝いますよ!おれけっこー料理うまいんですよ」
「そうなの?じゃあ一緒に作ろっかぁ!」
二人の姿が視界から消える。忍者は聴覚に神経を注いだ。水の音、冷蔵庫の開け閉めなどの物音に混じって、二人の声が聞こえる。
どうやら本当に料理はうまいようだ。包丁の音が調子よい。男のポイントがひとつ上がった。
彼氏の名前はサクラというらしかった。結婚すればサクラ若葉である。…男のポイントが0.5下がる。忍者の感覚から言えば、少々変わった姓名になってしまう。そろそろ姓名判断も学ぶべきかと忍者は考え始めた。初恋をした小学生のような脳内だが本人は至って真面目である。主たる若葉のため、出来うる限りのことをするのが今の彼のすべてなのだ。
出来上がった料理はふわふわのオムライスにコンソメスープ、サラダまでついていた。たまに作る若葉の料理は、煮込みっぱなしのカレーや炒めただけのチャーハンを一品だけというものばかり。つまりはほとんどをサクラが作ったのだろう。見た目も香りも、実際食べた若葉の表情も満更でもない。1ポイントアップ。
「おいしー!サクラくんほんと料理うまいね!」
「やー、はははっ。よかったっす!」
「うん、すごいー。ごめんねぇあたし、下手で…」
「そっすね、マジで!だってタマネギ…」
「ちょっとー!」
「冗談っすよー、別にいいじゃないですか。おれが作りますから。うまい飯食べさせてあげます」
「うーんー…。ありがと。…でもあたしもがんばる…」
思わず舌うちしたくなるような会話を、忍者は無心で聞いていた。…聞き流していた。
料理を練習するのは何回めだろうか。一応若葉は本気のようで、彼氏が出来るたびに熱心に包丁を振るう。だがいかんせん飽き性で大雑把な性格のため、上達する前に止めてしまうのが常だった。上達の前に彼氏と別れている、というのも原因のひとつである。
はっと室内に意識を戻せばいつの間にかそこは静かな、いい雰囲気が出来ていた。食事は終わり、ちょうど始まったテレビの映画をふたり無言で並んで見ている。
どれだけ放心していたのかと忍者の背を汗が伝った。映画はさいわいにもファミリー向けのほのぼのもので、ムードを盛り上げる気配はない。しかし油断は禁物。ふたりっきりになった若造など、なにもなくとも勝手に盛り上がっていくものなのだ、と忍者は考えていた。
映画が始まったからには終わるまでは居座るつもりだろう。…と、わずかに若葉がクローゼットを向いた。黒い瞳がじっと忍者を見据えた。音もなく忍者が頷く。
その目が言う。もう化粧落としたい、と。
ご主人様は客人のお帰りをご希望である。
どういうわけか、若葉は自分から帰って、と言い出すのを嫌がる。きっかけを作ってやるのも忍者の仕事だった。いつものように、母親の振りをして電話を掛けようと懐に手を入れた、そのとき、
「先輩」
「ん…?」
「キス、していいですか…」
こちらに背を向けて座っている若葉の表情は見えない。しかし、誰も見ていないことをいいことに、忍者の顔はゆがみきっていた。
このまま止めなければとことん流されていってしまうことは目に見えている。忍者がいつも苦り切った想いでみる、若葉の一番の欠点がこのゆる~い貞操観念なのだった。
とにかく、自室に招いて初日で、というのはよろしくない。キスだけならまだしも。主がなんと言おうと、忍者からすればよくない。電話はもう間に合わない、手っ取り早く追い返そうと、殺気を込めてサクラを睨む。
「あ」
あと3センチで触れるというところでサクラが止まった。半ば閉じかけた目を開いて若葉が見上げる。
「サクラくん…?」
「…あ、いやなんか……?」
◇
そこから明らかにサクラは挙動が不審になって、結局うやむやのうちに帰っていった。じゃあまたねと言って閉めたドアのこちら側で、若葉が静かにため息をついた。
「あぶなーい…またやってしまうとこだったぁ。…あのー」
お呼びですかとクローゼットの中から返事がする。
「ありがとございましたぁ、また。止めてくれて」
「差し出たことを致しました。すぐ入浴の準備を致しましょう」
「あっいいです~溜めながら入るんでー」
「左様ですか」
忍者が食器を洗い終わってコンロも磨いておこうと手をかけたとき、浴室の戸が開いた。ずいぶん早い。
「はぁ~牛乳ー…そうだぁ、カマンベールチーズ買ってきたので食べてください」
「はっ。ありがたく頂きます」
いつもの眠たげな無表情で若葉が言う。チーズは忍者の大好物だが若葉は好きではない。それをわざわざ買ってきてくれる主が、忍者は心底嬉しかった。
部屋へ戻ると若葉はすぐに電気を消してしまった。水がタオルにしみこむように、布団の中に吸い込まれていく。疲れてはいるが寝つけないようで、何度か寝返りをうって、じっと天井を見つめる。湯たんぽを入れておくべきだったかとの考えが忍者の脳裏をかすめた。
「あのー…」
ほら、きた。
どれほど人肌恋しいのか、若葉は3日に1日は忍者に添い寝を頼んだ。もっとも、冷え性な若葉は足が冷えると眠れないと言うため、湯たんぽの代わりにもなっているのだろうと忍者は考えていた。
シングルサイズの布団の中で、若葉がぴったりと忍者にすがりつく。すこし顔を動かせば、すこしあどけない若葉の素顔が見える。この顔を知っているのは若葉の家族と自分だけだ。そう思うと忍者はすこし誇らしいような気持ちになる。
目を閉じたまま、若葉が聞く。
「…サクラくん、どうでしたぁ…?」
「若さゆえの行動も見受けられますが素直な御人と拝見しました。動きにもそつが無く賢俊な方かと」
「そですかぁ…」
ふあ、と若葉があくびをする。
「お眼鏡にかなって…よかったです…」
「なにをおっしゃられますか」
「今度こそ…好きになれるかなって…ちゃんと…」
「…」
「…忍者さんよりも」
「もったいないお言葉です」
ふにゃふにゃ言いながら若葉が眠りにつく。その寝顔を、忍者は飽きることなく眺めていた。化粧と愛想の仮面を剥いだ素のままの寝顔。
いつか、この姿をさらけだせる男性に巡り合えればいいと忍者は思う。それでもそのときを思うと胸が潰れそうな気持ちがして、いつまでもそんな日が来なければいいとも思う。
若葉を起こさぬように、そっと布団から這い出る。
心の奥底のその願いに蓋をして、毎夜のごとく闇に溶けこみ気配を消した。