記憶の中のルカ -fire bird spin off-
柔らかく白い陽射しが病室内を包む。
いつものようにベッド脇の椅子に座っていたはずのルカは、気づけばレイナのそばに頭を寄せて、ぐっすり寝入っていたようだった。
微かな声でルカの知らない歌を口ずさむレイナは、以前には見たこともないほどの穏やかな表情であった。
…以前、ああそんなこともあったのよね…
微睡みの中にたゆたうルカはふと、もう遙か彼方のことにしか感じられぬ確実な過去へと思いを馳せた。
サイ能力を持つ子どもらを集め、軍事目的に利用するというSTE計画。もちろんここにいるルカもサイコキノ(念動力能力者)であり、テレポーター(瞬間移動能力者)でもある。
そして、現在でこそたおやかな母の顔でしかないレイナもまた、クレヤポンス(透視能力)を所有し、戦闘能力の高い子どもらを集めたプロジェクトSの元リーダーとして、常に厳しい面を見せ続けていたのだから。
闘いのすべてが終わり、私たちはこの先…医療刑務所の特別棟を出ることはない。それでもなお、いやそれだからこそ、満ち足りた静かな時間が流れるだけ。
「今度は何を作ってるの?ママ」
甘えた声でレイナへと語りかける。彼女の手には、白いレース糸が長く絡みつくようにうねっていた。
「160用のあなたのカーディガンよ。もうそろそろサイズ150だと小さいかな、と思って」
これが終わったら、色違いも作ってあげるからね。柔らかい声をうっとりと聴く。ルカはあえて、その先の台詞を彼女には告げずにいた。私には大きなサイズなど要らないのに、とは。
同じ「S」の仲間であるテレポーターのトオルの父と、名も知らぬ盲目の卵子提供者とのDNAを受け継ぐルカは、STE研究所内で作られた子どもだった。
文字通り、作られた。彼女に母はいない。極秘裏に進められた最新技術は生身の女性の臓器を必要とすることなく、新しい生命体を誕生させることができるようになっていた。
ルカはだが、十歳で成長が止まった。精神的にはすでに成熟しつつある思考能力を持ちながらも、見た目は幼い少女のまま。
…私がそのカーディガンを着ることは、ないの…
それでも、心強い同志であったレイナが向けてくれる母性の愛情と、私だけの手作りの服という響きに、ルカの心は温かく満たされていった。
「ねえ、ママ?またあのお話聴かせて?」
生物学的な年齢から言えばそう変わらぬはずのレイナを、ルカが「ママ」と呼び始めたのは…この部屋で暮らすようになってからだ。
レイナ自身は、彼女の自我は未だ現状を認識できない。長期にわたるリーダーとしての重圧と、信じていたものが目の前で崩れ去っていった現実を受け止められぬ衝撃が、彼女の意識をどこかへと逃がしてしまったらしい。
引き戻すのが果たして本当に幸せなのか、彼女にとって。
関わる誰もが胸に秘める疑問。
言葉はおろか、意思の疎通さえも全くできなかった彼女は、今はルカの母親としての「彼女の現実」を生きている。
そうねえ。ルカの舌っ足らずな甘え声を聴きながら、彼女はゆっくりと話し出した。
『あなたが生まれたのは、寒い冬の季節だった。でもね、その日だけはもう春を感じさせるくらいの陽気で、上着を一枚脱いだことさえ覚えてる』
うん…うん。頬に手を当て、ルカは心から楽しげに彼女の紡ぎ出す物語を聴く。
『大事を取って早めに入院していたから、痛みが来ても看護師さんの誰一人信じてくれなくてね。まだまだこれからよ、産まれるなんてその程度の陣痛じゃないんだからってね』
誰の記憶をたどっているのか。レイナにはもちろん出産経験などない。まだ年若き、個性溢れる集団を率いた統率者。気の抜けない生活。愛で結ばれる人間関係など味わったこともない。それは誰もが同じだったはずだ。STEの子どもたちはすべて。
『ようやく産科医が気づいてくれて、それからは早かったんだから。順調ねと言われたって、こっちはもう何もわからずに痛みに耐えるしかなくて』
辛かったの?私を産んだことは。ルカの声が掠れる。その柔らかな髪と頭をそっと抱きかかえて、レイナは慈母の微笑みを浮かべた。
『ううん、ちっとも。だってこんなに嬉しいことはないんだもの。あなたが産まれてきてくれて良かった。神様に祈ってありがとうを何遍も言って、それからこわごわとあなたを抱きしめて。小さくて壊れてしまいそうなほど華奢で、けれど強い生命力を感じさせる産声を聴きながら、この子はなんて強いのだろうと思ったの』
幼い頃から透視能力を持ち、実の母から新興宗教の教祖役を強制させられ続けていたレイナ。生き神様とあがめ奉られつつも、見せられるものは大人のドロドロとした醜い争いばかり。失せ物を探してくれと頼み込む女たちは、幼き巫女におのれの感情をぶちまけてゆくばかりだった。
誰が憎い、誰を恨んでいる。あいつにだけは渡さない。どんなしとやかな女性も、何もかも見通す巫女の前では仮面を脱いだ。口汚く罵る言葉に、彼女の柔らな心はズタズタに傷つけられていった。
それでも、ただ座っていれさえすれば金になるのだ。レイナの母親が彼女を解放することはなかった。あの日までは……。
レイナの過去など誰も知らずにいた。一般的な刑法上の罪に問えない彼女に、身柄を拘束されたままの保護観察処分とともに心理療法が義務づけられ、少しずつわかってきたこと。
STE研究所が彼女を引き抜いた。この能力が国家の安全保障に貢献できうるのだと説得され、彼女はようやく解放されたのだ。今度は別の鳥籠の中へと。
…私が産まれて、嬉しかった?…
ルカは何度も何度も、同じことを問い続ける。そのたびにレイナは幼い彼女を抱きしめる。
『当たり前じゃない、ルカ。あなたが産まれてきて本当に本当に嬉しかったんだから。私の可愛いルカ。温かい身体も小さな指も、美しく光る瞳も、すべてが愛らしくて。大好きよ、あなたのことが』
そう言いながらレイナがルカの頬を包み込む。レイナにとっては、これが現実の世界。ルカにとっては……。
マジックミラー越しに様子を観察していた主任心理官の向井は、近づく足音に振り向いた。
「戻りました。相変わらず……ですか」
言葉少なに窓を見やるのは、同じくSの仲間であったトオルだ。刑務所内の作業所で働く彼は、常に寡黙でいて、それでもこの二人を守り抜くのだという決意に満ちていた。
「そうですね。今日も非常に安定していますよ。我々もここまでレイナさんが回復されるとは正直…」
そっと向井が呟く。トオルの目が少しばかり光を帯びる。
「回復……なんですか?レイナの記憶は混濁している。自分のことではない妄想を語って聞かせるだけ。それがすべて偽りだと知って、なおも聞かされるルカのことを考えたら」
めったに話さぬ彼が、ここまで一気に言い放つ。よほど見るのも辛い光景なのだろう。そんな彼を落ち着かせるかのように、さりげなく背中に手を置くと、向井はトオルを別室へ入るよう促した。
「レイナは現実を見ていない!」
珍しく大声を出すトオルに、冷たい麦茶が差し出される。作業を終え、その足で真っ直ぐ部屋に戻る毎日。おのれの喉の渇きよりも何より、あの二人の魂の渇きが気がかりなのだろう。彼は水滴の付くグラスには、目を向けることもなかった。
「トオルさん。本物の記憶とはなんだと思いますか?」
唐突に心理官は、そう切り出した。トオルはぐっと言葉に詰まる。
「人間の脳については謎が多く、これまでにわかったとされるすべての説でさえ仮説に過ぎないとまで言われています。その中でも我々心理の人間にとって、記憶とは非常に興味深くかつ難しいものです」
ベテランの心理官は、人を落ち着かせる穏やかで低い声を発しつつ、視線をわざとトオルから外した。彼の心理的負担を軽減する為だろう。トオルはようやく、詰めていた息をそっと吐き出した。
「まずは一般的な話をしましょう。よく映像記憶とも呼ばれるグラフィック・メモリーによる記憶形式は、特段珍しいことではありません。思春期以前の子ども…自我形成前ならば誰もができるであろうとされています。ただ、通常ですと<言語を獲得し、抽象的で形而上な概念によって記憶することができるようになると、その能力は薄れてゆく>とされています。言葉が映像に置き換わるのですね。それは人間にしかできない能力かと思われます。もちろん」
向井はそこで一端言葉を切ると、自分の前に置かれたグラスを口につけた。
サヴァン症候群と呼ばれる一種の特出した能力の持ち主や、本来の意味での映像記憶、つまり一瞬にしてすべての情報を網膜に焼き付け、それを途切れさせることなく覚えていられる能力を持つ人間も…います。二人の脳裏に、カジオリョウヤという名が浮かぶ。彼こそが本来のグラフィック・メモリー能力を持つ人間の一人であることには違いない。Sの中でも最強の戦士でありながら、誰よりも争うことを良しとしなかった穏やかな青年。
「それ以外の記憶は、大抵は忘れるものなのです。忘れると言っても脳のある部分に蓄えられるのですが、通常はそのまま死蔵されます。引き出す必要がないからです。ではなぜ、人は幼い頃の記憶を持ち得るのか」
思い出したくもないガキの頃の思い出。STEにいた子どもらのほとんどが、傷どころではない抉られた跡を心に持ち合わせていた。忘れられるものなら忘れたい。しかし自分が自分である限り、記憶はついて回る。トオルはそう考えていた。
「実は記憶は、周りの刺激によって強化され固定されてゆくのです。当然これも仮説の一つです。しかし我々は、信ずるに値する仮説だと考えています」
トオルは知らず腕を組み、向井を睨むように見つめていた。心理官もまた、視線をトオルへと戻した。
「親から子へ語られる、記憶などないとされるはずの頃のエピソード。それは親にとっては忘れられない温かい思い出でもあるから、何度も何度も繰り返し語って聞かせます。それを受け取る側の子どもは、あたかもそれが自分の連続した記憶だと信じ、そのときの感情や感覚までもを覚えていると思いこむのです」
「思いこむ?」
反射的に訊き返してしまったトオルに、向井は深く頷いた。
「通常の親ならば、楽しげな出来事を多く話して聞かせるでしょう。それを聞いた子どもは笑顔を返してくれますからね。STEにいらしたお子さん方のほとんどは、それとは違い、辛い思い出を繰り返しインプットされてきたはずです」
ああそうだ。飲んだくれの親父が、男手一つで俺を育てる為にどれだけ苦労したか、どれだけ俺がかんしゃく持ちで手が掛かったか、どれほどの金食い虫だか、イヤというほど聞かされた。耳を塞ぎたくなるくらい毎日のように。
…おまえさえいなければ…その言葉も繰り返されたのは三桁四桁では済みそうもない。
向井は無情にも続ける。トオルの思いを置き去りにして。
「ですから、幼い頃の記憶は多くは断片的なはずです。親や周りの大人たちが繰り返し言葉で語って聞かせたことが、記憶となって定着する。もしくは物的証拠ですね。写真や思い出の品があれば、それを見るたびに記憶は蘇る。当然…何もない部分の記憶は薄れてゆく」
「子どもが自分の記憶だと信じているものは…」
周りの大人から植え付けられたものと言いたいのか。トオルは思わずそう返した。そんなはずはない。あの痛みも辛さも現実のものであり、自分は自分として連続した存在であり。
トオルの足元がぐらりと揺れる。人とはそこまであやふやなものに、自我を預けているのか。
「大人になれば、その作業は自分自身で行います。言葉による記憶の強化。忘れたいと思う厭なことに限って忘れられないのは、自分が何度もその場を思い出し、言葉によって整理し、きちんと形作られた<記憶>としてしまい込まれるからです」
言葉による記憶、それはヒトにしかできない脳が獲得した技術。
「話をお二人に戻しましょう。レイナさんは幼い頃から否応なく、大人の裏側を見せつけられてきました。言い方を変えれば、別の多くの大人たちの記憶を自分の中に取り込んでいったのです。自我が形成される前の柔らかく繊細な心の中に」
レイナに何の非もない。あいつは何一つ悪くない。けれど、子どもでありながら大人を…何人もの大人の人生を歩かされてきたのか。たった一つ、卓越した透視能力があるというだけで。
「彼女が語る言葉は、確かに彼女の実体験ではありません。しかし、記憶の質という点だけを見ればそうは変わらない」
「…赤の他人の記憶をあたかも自分が味わったかのように話して聞かせる。それが先生たちの考えるあいつの回復なんですか?」
毒を含んだ物言いだという意識はあった。しかし、それをヒトは「嘘いつわり」と呼んで忌み嫌ってきたのではないのか。
「今の彼女が語る言葉は、すべて愛情に溢れています。レイナさんの現実の過去にそれはありましたか?」
少しくらいはあったのではないか。そう楽観的に思えるほどトオルも純真ではいられなかった。信じるという行為を、彼らは一番はじめに捨てさせられたのだから。周りの大人たちによって。
「レイナさんが過去はともかく、今置かれている現実を受け入れる為の準備期間。ソフトランディングには長い長い滑走路が必要ではありませんか?」
向井はそう言って微笑む。ではルカは、聞かされる側のルカはどうなる!?
「そうですねえ」
ルカの話題になった途端、今度はベテランであるはずの心理官の方が腕を組んだ。表情も心なしか険しさが加わる。
「彼女へ対する治療は、はっきりと申し上げて我々にも未知の領域です。ルカさんこそ、本当に記憶を探そうにもないことがはっきりとしているからです」
…ルカ。その胸の痛みがまるで我がことのように、トオルの心はずきりと痛んだ。
「ただ我々は、彼女がレイナさんとの会話で見せる穏やかな表情に、過大と言っていいほどの期待を抱いています」
どういうこと、だ。トオルが知らずにうつむいていた顔を上げる。
「ルカさんは既に成人に近い思考能力を持つ。いえ、それ以上でしょう。ですから欲しいものは…言葉で構築された温かな記憶ではないか、と」
言葉で、構築された……記憶。
「以前、トオルさんがお話しくださいましたね。卵子提供者を突き止めて彼女は逢いに行ったと。それでもし、あなたが彼女の取ろうとしたどんな行動であれ止めてくださらなかったら、おそらく……」
彼女はさらに深く傷ついていたことでしょう。静かな声が、部屋を通り抜ける。
「提供者にとっては、ルカさんはDNAこそつながっていても全く見ず知らずの他人。はっきりと拒絶されることは間違いありません。行動を起こさなければ、受け入れられるかも知れないという可能性は残ります。しかし現実に声を掛けたりしていれば、彼女は誰からも見捨てられたという事実だけを抱え込むことになる」
「…さっき先生は…」
トオルの声は、聴き取りにくいほど嗄れてしまっていた。潤す何かは決して目の前の水分ではない。それだけは確かだ。
「記憶は語って聞かせることで強化されると。じゃあそれが、現実に起きたことでなくても…」
「トオルさん」
警視庁犯罪心理捜査研究所主任心理官の向井は、居住まいを正して真っ直ぐに目の前の寡黙な男を見据えた。これだけは伝えておかねば、という決意すら感じさせる態度で。
「確かにレイナさんの語る過去は彼女自身のものですらありません。ルカさんには現実に生物学上の産みの母さえいません。それは変えられることのない事実であり、曲げることは不可能です。しかし」
お互いに息をつめる。刃のなまっていない真剣で勝負するかのように。
「今、その言葉を受け取るルカさんが味わっている感情、感覚、レイナさんから掛けられる温かな視線と手の感触。それはすべて本物なのですよ」
ほん…も……の。その言葉の持つ意味に、トオルは震えた。
「語られる真実は本物ではないかも知れません。しかし、彼女の今の感情はまぎれもない現実です。それがあの笑顔だと、我々は信じたい。そこに…希望が残されている…と」
「救われるんでしょうか、あの二人は」
思わず呟くトオルに、向井はフッと笑みを浮かべた。
「救われるべきは三人ですよ。トオルさん、あなたも含めて」
守ってあげてください。守り抜いてあげてください。そのことがおそらく、あなたを絶望から救い出してくれるはずです。
向井の言葉が遠くなる。
トオルは早く、二人のいる病室へと急ぎたかったのだ。
待つ人らのいる場所へ。
大切な守るべき家族の元へ。
ただいま……と。
<了>
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