第54話 傲慢は転落へとつながる③
「黙れ! 私に逆らうな!」
乱暴に振り下ろした手はベアトリスを打擲する直前に空中で止まった。アレクシアに阻まれたのだ。
「こうしてあなたを止めるのは二度目です。何も変わられていないのですね、アーレンブルク公爵」
「きっ、貴様……リートベルクの……!?」
アレクシアの手は相変わらず鉄鋼のように硬く、どんなに力まかせにもがいても振り払えなかった。
「放せ! 無礼な女が!」
暴れれば暴れるほど腕が捻じあげられて、かえって身動きが取れなくなる。公爵は濁ったうめき声を洩らした。
「……公爵はずいぶんと無知でいらっしゃるのですね」
アレクシアの声は静かなのに、背筋が凍るほど冷ややかだった。
――まだ産後の体も回復しきっていないだろうベアトリスに向かって、早く次の子を孕めだの、男しか許さないだの、腹が立つにも程がある。
アレクシア自身も娘を持つ母だ。女を産んだことの何が悪いのかまったく理解できないし、実の父から祝福ひとつなく、心ない言葉で責められるベアトリスの心情は察するに余りある。
「女は自分の意志ひとつで自在に妊娠し、性別まで好きに決められるとでも思っているのですか……?」
射るように公爵を見下ろす青い瞳は、どこまでも冴え冴えとして冷たい。
「公爵──そんなに男子が欲しければ、あなたがご自分で産めばいい」
まるで猛禽のような眼光の鋭さに、アーレンブルク公爵は気圧された。
「あなたが終わりの見えない辛い吐き気と、水も飲めない地獄の不調と、様々な制限を課せられる日々と、拷問のような陣痛に耐えて産めばいい」
「何の話だ!?」
公爵はわめき散らしたが、ベアトリスは深く首を縦に振った。
「本当にそうですわ。お父様がご自分で産めばよろしいのに」
「ベ、ベアトリス……?」
従順だった娘が自分に逆らい、この野蛮な女にまで賛同している。いったい何が起こっているのか理解できない。
公爵はベアトリスに詰め寄ろうとしたが、まだつかまれたままの手首をきつく締められて止められた。
アレクシアは淡々と言い放つ。
「以前は放したが……今日はこのまま骨を砕いてさしあげてもいいのですよ」
「そ、そんなことをすれば貴様は終わりだ!」
公爵は娘と孫を自邸に迎えるつもりだったのだ。リートベルクの野蛮令嬢など呼んだ覚えはない。
招かれざる客が無断で公爵邸に侵入し、当主である公爵に危害を加えた。暴行と傷害の罪に問うには充分だ。
「貴様は我が家に不法侵入し、この私に一方的な狼藉をはたらいた犯罪者だ! 貴族裁判も辞さんぞ! 私は無辜の被害者なのだと証言してや──」
「証言が必要なら私がしよう」
つかつかと足音が鳴り響き、華やかなライトブロンドの髪がひるがえった。
「私の妻があやうく暴力をふるわれそうになったのを、リートベルク辺境伯令嬢が防いでくれた。正当防衛なのだとな」
王太子エドガーはベアトリスを守るように公爵の前に立ちふさがると、彼女の肩を抱いた。
「アーレンブルク公。私はあなたと違って、妻にも娘にも何の不満もない。私の大切な女性たちを傷つけるあなたを、義父として敬いたくはない──」
エドガーの新緑の瞳には、断罪の決意がはっきりと浮かんでいる。
アーレンブルク公爵は叫び散らしながらうろたえた。
「で、殿下! 殿下はアーレンブルク家を潰すおつもりですか!?」
王太子妃の実家が没落すれば、ベアトリスの肩身が狭くなるのは避けられない。王太子自身の地盤も危うくなるだろう。
公爵の失脚は王太子が強力な後ろ楯の一つを失うことを意味する。
「いいや? そのようなつもりはないが?」
エドガーはゆるりと首を振った。
かつてエドガーはアレクシアに対し、不名誉な罪状で公爵を破滅させることはしない、と断言したことがある。
『《《あと少しなのだ》》。ベアトリスの面目を損わず、アーレンブルクの家名を汚すこともなく、公爵一人だけを追い落とすための条件が……《《あと少しですべて整う》》』
あの発言から約一年。
この一年で「あと少し」は満ちた。
『公爵一人だけを追い落とすための条件』は、何ら難しい案ではなく、複雑な話でもない。
ごく簡単でシンプルな方法だ。
「公には退いていただくが、アーレンブルク家が凋落することはない。──信頼に足る者が跡を継ぐのでな」
「あ、跡を……?」
困惑する公爵の前に、一人の若い男が歩み寄ってきた。
少年という年齢を脱したばかりの顔つきには、あどけなさよりも理知的な静謐さが強く宿っている。
ベアトリスと同じ栗色の髪に、よく似通った涼やかな目鼻立ち。彼は迷いのない足取りでエドガーのとなりに立つと、険のある目でアーレンブルク公爵を見下ろした。
「お久しぶりです、父上」
「フ……フェリクス!?」
フェリクス・ツェーザル・アーレンブルク。
アーレンブルク公爵の嫡男で、ベアトリスの弟だ。
「フェリクス……!」
「もう大丈夫です、姉上」
心配そうに呼んだ姉を振り返って、フェリクスは整った顔に笑みを浮かべた。
「ようやく戻ることが叶いました。王太子殿下と……姉上のおかげです」
ベアトリスとフェリクスの姉弟は名門公爵家の子に生まれ、何不自由なく育った──はずだった。表向きは。
|"城"《ブルク》のつく姓を持つ由緒あるアーレンブルク家は、外観こそきらびやかだが、一歩中に入れば、当主である公爵の怒号が絶えず響いていた。
ベアトリスとフェリクスの母である公爵夫人は夫の暴言暴力に耐えかね、逃げるように実家へと戻った。──子供たちを置き去りにして。
残された幼い姉弟には、横暴な父親の要求に応える以外に、生きる道などなかった。
ベアトリスは王太子の妃になれと求められ、苛烈な淑女教育を強いられた。
フェリクスは公爵家にふさわしく優秀であれと求められ、過酷な後継者教育を課せられた。
姉弟はともに優等生で、ベアトリスは見事に王太子妃の座を射止めたし、フェリクスもまれに見る英才と騒がれた。
しかし狭量な公爵はそんな息子を疎んだ。フェリクスが自分よりも称賛されていることに脅威を覚えたのかもしれない。
フェリクスに優秀でなければ許さないと強いておきながら、息子が実際に評価されると露骨に罵倒をぶつける。
将来を嘱望される有望な少年にとって、父親の理不尽な言動はただの害悪でしかなかった。
父と息子の折り合いがいよいよ悪くなったのは、フェリクスが父の唱える富国強兵策に真っ向から反論した時だった。
──開戦の火蓋を切る行為はみすみすこの国に荒廃を呼び込むだけ。そうはっきりと刃向かったフェリクスを、頑迷な父が許すはずもなかった。
父と決定的に決裂したフェリクスは公爵家を出奔し、留学の名目でテュルキス王国に渡った。
アーレンブルク公爵は実の息子が滞在しているにも関わらず、テュルキス王国への挙兵を唱え、開戦を声高に主張していたのだから業が深い。
一方、実家の呪縛を離れたフェリクスは、大国テュルキスの文化と叡智に触れてさらに見識を深め、さらに才気を培っていった。
父とは絶縁も同然の状態だったが、姉夫婦とは隠れて連絡を取っており、母国の情勢も把握していたという。
「先日テュルキスより帰国し、本日のお披露目パーティーにももちろん参加しておりました。可愛い姪の記念すべきお祝いなのですから、当然でしょう?」
「なっ……!」
公爵は貴族たちとの皮肉の応酬に気を取られるあまり、息子が会場にいたことにも気がつかなかったらしい。
もっともフェリクスは数年前に公爵家を出た時に比べて、すっかり背丈も伸び、少年から青年ヘと成長していたから、どのみち遠目にはわからなかったかもしれないが。
「アーレンブルク公爵、あなたは知らないだろうが、王家はあなたよりもフェリクスを見込んでいた」
エドガーの言葉に、公爵は白目を剥いた。
かつて数多の令嬢たちが王太子妃の座を巡って妍を競い、火花を散らしていた頃。
多くの妃候補の中からベアトリスが選ばれたのは、血筋の正しさや公爵家の権勢、ベアトリス自身の真面目で謙虚な性格もあったが、もう一つの決め手となったのは弟のフェリクスの存在だった。
姉と同じく真面目で博識、年若ながらも聡慧なフェリクスは、この国を支える有能な人材になるだろうと見込まれていたのだ。
「あいにくだが、公爵。あなたは最初から期待されていなかった――」
現公爵は困った御仁だが、次期公爵は期待できる。
嫡男が跡を継ぎさえすれば、アーレンブルク家は王家にとって真に価値を持つ──。
そんな目算で、アーレンブルク家は王家の外戚となることが認められたのだ。
エドガーは妻と義弟と交互に目を見合わせた後、公爵に向き直った。
「あなたの短い栄華は、賢い娘と優れた息子のおかげでもたらされたのだ」




