け:継承
さわさわと風がそよぐ。耳元で髪が泳ぐ。
わたしは高台で、見慣れた町並みを見下ろしている。わたしの育った町。わたしを知らない人のいない町。わたしの全てが知られている町。
――もう帰れない。ここに、もうわたしの居場所はない。
風はいつまでも強くわたしを揺らした。
とても平凡な町。どこを歩いても知った人に出会う。知らない店はない。知らない道なんかもない。
町中が、誰にとっても一つの家庭みたいなものだった。町を構成する母親的な程よい干渉、父親的な厳しくありがたい思想。枠からはみ出る人間なんか一人もいなかった。
隠し事も出来ない。だからみんなしない。大体、する必要がない。
そんな健全な町。よそ者は定着しない。すぐに出て行くから。
わたしはそんなこの町で、何一つ不自由なく、不満なく、むしろ町の住民である事に誇りを抱いて生きていた。これからもそうであると、何の疑いも持たずに。
変化なんて突然やってくる。わたしは初め、うずくまる見慣れない黒猫に気付いた。
町の全ての猫や犬、山羊や牛なんかの家畜、その他気まぐれに山から降りてくる狸や鹿にも、一匹一匹に名前がつけられている。全ての生き物は共存し尊重し合うべきものだから。
山での山菜摘みの途中で見た黒猫に、だからわたしは驚いた。初めて見る子だ。早く長に報告しないと。
まず長に認められないと、そのものに触れる事は出来ない。危険の回避・個体の認識の為の常識。
わたしは報告の為にその子の特長を見付けようと、黒猫を覗き込むように近付いた。顔を上げて、でも猫は動こうとしなかった。
警戒に身を強張らせて、でも逃げる素振りもみせない。ケガでもしてるのかな? 血、なんかは出てなさそうだけど……。
ようやくあげられた黒猫の鳴き声の弱さに、わたしは決心した。普通ならその場をすぐに離れて、まず長を呼んでその場に連れてこないといけない。でもこの子は多分弱ってる。一刻も早い治療や何かが必要みたいだ。
わたしは山菜を入れたかごを腕の向こうにしっかり抱え直してから、そっと手を伸ばした。噛まれるかも知れない。
安心させるように、わたしは黒猫に囁いた。
「大丈夫よ。おいで」
黄色い瞳が細まって、力が抜けた。こちらに危害を加えるつもりがないのを汲んでくれたようだった。
賢い子。わたしは微笑んで、暖かなその体を抱え上げようとした。気配もなく、そのわたしの手は誰かの手に掴まれ止められた。
持ち上げかけた黒猫を落としそうになるくらいに驚いて、わたしは呑み込んだ悲鳴と共に猫から手を離した。自分の腕に掛かった手も外れて、でもわたしはその腕を辿ってその“誰か”の顔を見た。
……異人さん、だった。見た事のない浅黒い肌。痩せこけた頬の中、射抜くように強い黒い瞳。髪も真っ黒。威圧するような、黒――。
――見た事がない人種。見た目もそうだけど、全く気配を感じさせずに突然現れた相手に、わたしは瞬間、死神がやって来たのかと思った。
ぺたりと、わたしはその場で腰を抜かした。すぐにがたがたと全身も震えて、目の前で腕を伸ばしてきた黒い相手に、自分が取って喰われるんだと本気で怖かった。
わたしは本能的に目をつぶり、あらん限りの悲鳴をあげた。叫んだ。甲高い声で、声を限りに。死神よ去れ、と言わんばかりに。
無我夢中で叫んで。恐る恐る目を開けたわたしの前から、不吉な男はいなくなっていた。同じような黒い猫と共に。
わたしは震えながらやっとの思いで立ち上がり、摘んだ山菜の入ったかごをやけに重く感じながら、長の元に向けて必死に走り出した。
黒猫と黒い男。
わたしの見たそれらの訪問者は、大したニュースのないこの町にちょっとした衝撃をもたらした。まだ涼しい午前中の出来事を、夜が来る頃には町中全員が知るほどに。
彼らはどこから来たのか。そしてどこへ行ったのか。わたしは色々な人に捕まり、何度も話をさせられ、決まってこう聞かれた。
興味と畏怖。知らないと言う事は、おおよそ不安と恐怖でしかないから。
だけど、わたしに何かが分かる訳はない。わたしは目撃しただけ。遭遇しただけ。わたしにがっかりされても困るのだ。
散々引っ張り回された疲労で、その夜わたしはすぐに眠りに落ちた。昼間に見た肌の黒い男の事を思い出す間もないままに。
翌日。ちょっと好奇心に溢れた何人かの町の若い女性は、昨日わたしが彼らと出会った山に出掛けていた。だけど大多数の住民は不吉な彼らとの関わりを避けようとしていた。
わたしにとっても、二度目の再会はごめんだった。飲み込まれ取り込まれそうな黒い瞳。ほんとうに、するりと吸い込まれるかと思った。
山に出掛けてしまった女性達の代わりに、わたしは川に出荷用の野菜を洗いに出掛けていた。そう言えば、この間仕掛けておいたリス捕獲用のかごを見に行こうかしら。
わたしはそう思い立って、一緒に川に来たおばさん達に声を掛けて、少し上流に向けて歩いた先の山道に入って行った。リスの長い尻尾から取れる沢山の毛皮は、暖かく貴重だ。一匹か二匹、罠に掛かっているといいけど。
奥まった仕掛けの木の前に辿り着いて、わたしは愕然とした。仕掛け罠が壊されている。
町の人の仕業じゃない。よそ者の仕業……考えて、どきりとした。まさか。あの黒い男――
はっと、気配に振り向いた。振り向く前から、分かっていた。昨日見た男。漆黒に全てを包んだ男。
底無しの沼のような黒い瞳。不吉にやせこけた顔。
男が、わたしの目の前にいた。唇が開いて、何かしゃべったらしいけれど、言葉は全くの一語も聞き取れなかった。
わたしはやっぱりまだ怖さから、逃げようとした。少し下ればおばさん達がいる。それに、わたしばかり二度も男に会ったなんて言ったら、何か精通しているとかあらぬ誤解を受け兼ねない。
後ずさろうとした足が、足許にいた黒猫にぶつかった。気を取られた瞬間、腕をまた強く掴まれた。昨日みたいに。
そして、今日はわたしはおばさん達に声が届く様に、叫ぼうとした。
開いた口を乾いた手の平に塞がれた。腕を掴む手が外れた、逃げられないから? 今のわたしは、腕なんか掴れていなくても逃げられないから……?
怯えてすくむわたしは口を塞がれて身動き一つ出来ない、黒い男はわたしに何をするのか、ああ、やっぱり不吉な死神だったのだわ……
わたしは涙の滲む目で男を見ていた。再び男の唇が動いた。呟かれる言葉。聞き取れない、祈りめいた、儀式めいた言葉――
男がわたしの口から手を離した。もう、叫びも喘ぎもわたしの口には上らない。
男のもう片方の手の平が、わたしの額に触れた。視界が半分遮られる。――その瞬間。
ものすごい、情報の奔流!!
映画のように、鮮明な映像がわたしの頭の中を駆け巡った。
貴族らしいお腹の大きな女の人、大きな樹の下、その人の右側の脇腹から出てきた赤ん坊、歩くその子の足許に咲く蓮の花、女の人の死、何一つ不自由なく王子として育つ少年、きらびやかで盛大な結婚式、遅くして産まれた子供、何一つ不自由ない籠の中の毎日、抜け出した塀の外に見る老人、病人、死人、修行者、そこからの修行僧としての生きざま、80の老人として生を受けた同じ樹の下で眠るように死を迎えた――ゴータマ・シッタールダ、いわゆるブッダと呼ばれた男の一生が、わたしの頭の中を一度に駆け抜けた。
学のないわたしが知りようのない情報が、嵐のように、怒涛の勢いで、言葉を伴い、……そしてまた、容姿の違う子供の目が開き、ブッダの魂を引き継いだその子供が修行を重ね教えを説き続ける一生の記憶が、その子が託した気高い魂が性別を種族を越え次々に持ち主を替えて――そうして、目の前にいる肌の黒い男の目が悟りに開いてからの今までが――
――わたしの中にいちどに流れ込んできて、そうしてわたしは受け止めきれない重さによろめいて、最期に枯れ細った体で微笑んだ男の言葉を最後は聞き取った、曰く。
“受け取りなさい”と。
気を失っていたのは、おそらく数瞬。わたしの前には、肌の浅黒いやせこけた男が倒れていた。肉体も精神もその役目を果たし終えた男が。
尊敬と称賛を込めて、わたしはその額に口付けた。無事にわたしを見付けて下さって、心より感謝致します。
わたしはそうして、男の首にかかっていた細い鎖のネックレスをそっと外し、自分の首につけた。これは持っていくべきもの、だ。
わたしは立ち上がった。わたしの肌の色は、男ほどではないにしても、わずかに浅黒くなっていた。髪の色も。それまでの透き通るような金糸から、黒に近い茶褐色に。
幾多の魂を引き継いで、それらが必要としてきた容姿なのだろう。わたしはそう納得した。
するりとわたしにもたれるように、甘えるように首をもたげてきた黒毛の馬を、わたしは見つめた。男には猫として、わたしには馬として。
流れ込んで来た記憶の波の中で、人の横には必ず何かしらの生き物が存在していた。従者のように寄り添う彼らもまた、姿かたちを変えるらしい。
わたしは黒い馬のたてがみをそっと撫でた。もういい加減におばさん達が騒ぎ出す頃だろう。
「行きましょうか」
わたしが囁くと、馬はすっとわずかに腰を落とした。乗れ、と言ってくれているらしい。
「……賢い子ね」
わたしは微笑んで、手綱もない初めての馬の背に乗り込んだ。賢いわたしのパートナーは、おばさん達に見付からないよう川を上る方向に、山道をゆっくりと走り出した。
わたしの旅は始まった。今までと違い、目的を持った人生。
世話になったみんなに、あいさつくらいしたかったけど。
見た目が変わってしまったわたしを、町の人は畏怖するだろう。それこそ死神を見るように。
だから、一人一人へのさよならを、わたしは心の中で言い終えた。風がまだ見慣れないわたしの髪を強く揺らす、高台で。
ありがとう。さようなら。
わたしは握っていたネックレスから手を離し、わたしの聡明なパートナーの背中にそっと乗り上げた。




