第6話 ずっといっしょ
騒乱の婚約披露宴から数時間後。
私は王城のテラスで、夜風に吹かれていた。身にまとっているのは、アレクサンデル様が用意してくださった淡いブルーのドレスだ。湯浴みを済ませ、煤と汚れを落とした私の肌は、自分でも見違えるほど白く戻っていた。
けれど、何よりも軽いのは喉元だ。あの忌まわしい革の感触はもうない。
「……寒くはないか?」
背後から温かいショールをかけられた。顔を向けると、アレクサンデル様が穏やかな表情を向けていた。
「いいえ、大丈夫ですわ。……ありがとうございます、アレクサンデル様」
自分の声が、すんなりと出る。喉が焼ける痛みも、窒息する恐怖もない。当たり前のことが、これほど幸せだなんて知らなかった。
「マリエッタ……あの女のことは、もう心配いらない」
彼は私の隣に並び、手すりに肘をついて夜空を見上げた。
「彼女は自らが提案した通り、釘を打った樽に入れられ、国境の彼方へと転がされていったよ。……もっとも、命までは取らぬよう、釘の長さは調整してやったがな。スリッポン国には早馬を出した。事の顛末は明日、そなたの父上の元に届くだろう」
彼の声は平然としていたが、その瞳の奥には峻厳な王者の光があった。マリエッタは二度と、この国の土を踏むことはできないだろう。彼女が私に与えた苦しみは、そのまま彼女自身の人生を縛る鎖となったのだ。
「それよりも、リリアーナ」
不意に、彼がこちらを向いた。
夜風が銀の髪を揺らす。月明かりに照らされた横顔は、息が止まるほど美しかった。
「昨夜、暖炉越しに聞いた言葉を……もう一度、君の口から直接聞かせてくれないか」
聞かれていた!?
そうだ。そうでなければ、今夜こんな事にはならなかったはず。
昨夜の独白。絶望の中で吐き出した、叶わぬはずだった愛の告白。恥ずかしさで顔が熱い。
私は深呼吸をして、真っ直ぐに彼を見つめた。
「お慕いしております、アレクサンデル様。……貴方のことが、大好きです」
殿下の表情が花開いた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。冷えた肌に、彼の掌の温もりが染み込んでいく。
「……ずっと、触れたかった」
指先が頬から顎へ、そして唇の輪郭をなぞる。
「獣たちの世話をする君の横顔を見るたび、この手で触れたいと思っていた。声が聞けなくても、君の瞳は誰よりも雄弁だった」
彼のもう片方の手が、私の髪を梳いた。月光に照らされた銀糸が、指の間をすり抜けていく。
「アレクサンデル様……」
「アレク、と呼んでくれ。君にはそう呼ばれたい」
彼の顔が近づいてくる。
私は目を閉じた。
「おいおい、やってらんねえな! 見てるこっちが恥ずかしくなるぜ!」
空中に仄白い光が凝縮し、不満げな顔をした馬の霊体が現れた。
「ファラダ! まだ成仏していなかったの?」
驚いて声を上げると、ファラダは鼻をフンと鳴らした。
「俺様の首を飛ばした女狐がいなくなったからな、未練はなくなったんだが……まあなんだ、お前一人じゃ危なっかしくて見てらんねえだろ? もうしばらく、守護霊として付き合ってやるよ」
憎まれ口を叩きながらも、眼窩の光は下弦の月。
アレクサンデル様は苦笑して、宙に浮くファラダの額を小突いた。「え、触れた」と驚いていると彼は口を開いた。
「口の減らない馬だ。だが……君のおかげで彼女を取り戻せた。礼を言うぞ、義兄弟」
「うおおっ、義兄弟はやめろっ! 背中が痒くなるだろうが!」
ギャーギャーと騒ぐファラダの声に誘われ、テラスの下から「グルルゥ」という低い鳴き声が聞こえてきた。見下ろせば、ワイバーンのヴェルやグリフォンたちが、こちらを見上げている。
アレクサンデル様の目がキラリと輝いた。
「……リリアーナ、少し待っていてくれ」
彼はテラスの手すりを越え、下へ降りていった。驚く私の前で、殿下はヴェルの首筋を撫で、グリフォンの嘴を優しく叩いている。獣たちは嬉しそうに喉を鳴らし、殿下に身体を擦り付けていた。
「ふふっ、本当に獣がお好きなのですね」
私の声に殿下は照れたように頬を掻いた。
「……城では、こうして触れ合う機会がなくてな。厩舎に通っていたのは、君に会いたかったのもあるが……正直に言えば、彼らに会いたかったのも理由の一つだ」
その正直さが愛おしかった。
やがて殿下はテラスに戻り、再び私を腕の中に収めた。
「もう離さないからな」
「ええ、これからもずっと一緒ですよ……私の大切な旦那様」
「けっ!」
ファラダの拗ねたような声が、背後から聞こえてきた。
(了)
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