第5話 断罪
翌日。
王城の大広間は、これ以上ないほどの華やかさに包まれていた。無数のシャンデリアが眩い光を放ち、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑していた。
今日は、この国の皇太子アレクサンデル殿下と、隣国のリリアーナ王女――つまり偽物のマリエッタとの、正式な婚約披露宴だ。
そんな光あふれる場所の片隅に、異質な存在が一つ。私は煤と藁にまみれたチュニックを着たまま、その場に立たされていた。両脇に屈強な衛兵が立ち、見せしめにされているのだ。
「あら、ごきげんよう。煤けた魔獣番さん」
扇子を口元に当てながら、マリエッタが近づいてきた。純白のドレスに身を包んだ彼女は、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「感謝なさい。本来なら地下牢に放り込まれるところを、わたくしの慈悲でこの晴れ舞台を見せてさしあげるのですから。……これが終わったら、あなたには死ぬまで鉱山で働いてもらいますわ」
彼女の冷酷な宣告に、私は唇を噛み締めて俯くことしかできない。悔しい。けれど、声が出ない。会場の貴族たちも、私を「不敬な召使い」として軽蔑の眼差しで見ている。
もう、終わりだ。私は絶望に目を閉じた。
そのとき、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
「静粛に! アレクサンデル皇太子殿下の御成りである!」
重厚な扉が開き、アレクサンデル殿下が姿を現した。正装に身を包んだ彼は息を呑むほど凛々しかったが、その表情は氷の冷たさを湛えていた。
彼は壇上に上がると、隣に並んだマリエッタを一瞥もせずに、会場を見渡した。
「皆、今日はよく集まってくれた。……婚約を発表する前に、一つ、諸君に聞いてもらいたい『寓話』がある」
会場がざわめく。祝いの席で寓話?
殿下のよく通る声が、静かに、しかし朗々と響き渡った。
「ある国に、一人の美しい姫がいた。彼女は輿入れの旅の途中、信頼していた侍女に裏切られた」
血が一瞬で逆流した。彼がなぜ知っているの?
「侍女は姫を脅して声を封じ、身分を入れ替え、姫の愛馬を殺してその地位を奪い取った。本物の姫は粗末な小屋に押し込められ、虐げられ続けた」
マリエッタの顔色が変わる。扇子を握る手が小刻みに震え始めた。
「……さて、ここで問いかけよう」
殿下はゆっくりと、隣のマリエッタの方を向いた。その瞳は笑っているようで、奥底には凍える殺気が渦巻いている。
「愛しき我が婚約者よ。もし、そのような大罪を犯した者がいたとしたら、どのような罰が相応しいと思うか?」
会場の視線が一斉にマリエッタに集まる。
沈黙が広間を支配した。貴族たちの囁きが、波紋のように広がっていく。
「なぜ殿下は、そのような話を……」
「まさか、何か疑惑でも?」
「姫様の顔色が優れないようだが……」
マリエッタは顔面蒼白になりながらも、必死に平静を装おうとしていた。ここで動揺すれば、自分がその罪人だと認めることになる。
「……お、おかしなことを仰いますのね、アレク様」
彼女は引きつった笑みを浮かべ、声を絞り出した。
「それはただの寓話でしょう? わたくしに何の関係がありますの? そのような……そのような荒唐無稽な話で、この神聖な披露宴を涜すおつもりですの?」
なんとか言い逃れようとしている。
けれど、殿下は微動だにしなかった。
「質問に答えよ、マリエッタ。そのような大罪を犯した者には、どのような罰が相応しいか」
殿下の声は静かだった。けれど有無を言わさぬ圧力があった。会場の空気が張り詰める。貴族たちは息を呑み、成り行きを見守っていた。
追い詰められたマリエッタは、震える声で答えた。
「そ、そうですわね……そのような極悪人は、裸にして樽に詰め、内側に鋭い釘を打ち付けて、荒れ野を転がすべきですわ。死ぬまで、苦しみ続けるように」
会場から「おお」と感嘆の声が漏れる。なんと残虐で、毅然とした態度だろうと。
しかし、殿下だけは満足げに頷いた。
「なるほど。釘を打った樽転がし、か。……実によい案だ」
殿下の口元が三日月に歪んだ瞬間、彼の纏う空気が爆発的に変わった。
「ならば、その判決を其方自身に執行しよう――偽りの姫、マリエッタよ!」
「――え?」
マリエッタが間の抜けた声を上げた。
会場が騒然となる。「偽りの姫とは何事だ」「殿下は何を仰っている」と。
その混乱の最中だった。
破裂音と共に、大広間の窓ガラスが一斉に砕け散った。
悲鳴を上げる貴族たち。その頭上を越えて飛び込んできたのは、巨大な翼を持つグリフォンと、三頭のワイバーンたちだ。その先頭には、淡い燐光を纏った馬の霊体、ファラダがいた。
『ヒヒィィィン!』
殿下の目が輝いて目尻が下がる。あの獣好きの顔だ。
けれどすぐに表情を引き締め、断罪者の仮面を作り直した。
『待たせたな、女狐ぇ!』
ファラダはいななきと共にマリエッタへ突進してゆく。
『俺様の首を刎ねたこと、忘れたとは言わせねえぞ!』
「ひ、ひぃぃぃっ!? な、なんなのこの化け物!」
マリエッタは悲鳴を上げて後ずさる。けれど、逃げ場はない。
『姫! お前の溢れる魔力を俺様に貸せぇっ!』
ファラダの叫びが響く。
私の胸の奥で、アレクサンデル様への想いと、悔しさが熱い奔流となって渦巻いた。
十日間、声を奪われていた。
十日間、誰にも信じてもらえなかった。
十日間、この女に虐げられ続けた。
その全てが爆発する。
私の『万象の対話』の力がファラダへと流れ込む。霊体として安定した今の彼なら、この魔力を受け止められる。
淡い光が眩い輝きへと変わり、ファラダの霊体が質量を持った「実体」へと変化していく。
ドンッ!
実体化したファラダの蹄がマリエッタを蹴り飛ばした。その衝撃で彼女の首にかかっていた「姫の首飾り」が弾け飛ぶ。
ボシュッ、と音を立ててマリエッタの姿が歪んだ。
楚々とした美貌が崩れ落ち、そこに現れたのは、厚化粧の下に意地悪な表情を隠した、見慣れた侍女の姿だった。
「いやぁぁぁっ! 見ないで! 見ないでぇっ!」
マリエッタは顔を覆ってその場に蹲った。
会場が騒然となる。
「お、おいっ!? 姫の顔が変わったぞ!?」
「あれは誰だ!」
「別人ではないか!」
貴族たちが口々に叫ぶ中、ファラダはそのまま私の元へ駆け寄ってきた。そして、私の喉元に噛みついた――いや、噛み砕いたのは、私を縛り続けていたあの忌まわしいチョーカーだった。
カラン、と乾いた音を立てて、革の首輪が床に落ちる。胸の奥の重い塊が、すっと消えていく。
「……あ、……ぁ」
声が出る。
私は痺れた指先で喉に触れた。
「リリアーナ!」
壇上から駆け下りてきた殿下が、私を強く抱きしめた。煤で汚れることも厭わず、力強く、けれど優しく丁寧に。
「遅くなってすまない。……もう大丈夫だ。誰も君を傷つけさせはしない」
耳元で囁かれる言葉に、張り詰めていた糸が切れた。私は彼の胸に顔を埋め、滲む視界の中で、ずっと言えなかった言葉を紡いだ。
「アレクサンデル様……っ! 怖かったのです……ずっと、怖かった……!」
「ああ、知っている。君の悲しみも、孤独も、すべて聞いた。……よく耐えたな、俺の愛しい姫よ」
殿下は私を腕の中に収めたまま、会場の貴族たちに向かって宣言した。
「見よ! この者こそが真の王女であり、私が心から愛する女性、リリアーナである!」
グリフォンやワイバーンたちが私たちの周りに集まり、恭しく頭を垂れる。殿下は一瞬だけ、その光景に目を細めた。獣たちに囲まれる喜びを噛み締めるように。
けれど、すぐに表情を引き締めて続けた。
「獣たちがかしずくこの姿こそが『獣語りの姫』の何よりの証拠だ!」
それは岩よりも固い証明だった。
衛兵たちに拘束され、引きずられていくマリエッタの絶叫が遠ざかっていく。
「嘘よ! 嘘よぉ! わたくしこそが姫なのに! わたくしこそがぁぁぁ!」
その声はもう、私の耳には届かなかった。温かい腕の中、私はただアレクサンデル様の鼓動だけを感じていた。




