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泣きながら告げた『さよなら』は、皇太子が通気口の向こうで聞いていた  作者: 藍沢 理


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第4話 使われていない暖炉

 真夜中。

 僕は城の古い書庫の奥にある小部屋へと足を踏み入れた。

 埃の積もった床に、僕以外の足跡はない。長らく誰も訪れていないのだろう。部屋の隅には、煤けた暖炉の裏側が見える。厩舎と繋がる通気口だ。


 昨日の昼間、城の古い設計図を調べて確認した。厩舎の暖炉は、この小部屋へと繋がっている。かつては暖房を共有していたのだ。


 そして昨夜、不思議な夢を見た。銀色の馬が現れ、人語で語りかけてきたのだ。


 ――厩舎の暖炉へ行け。真実がそこにある。


 荒唐無稽な話だ。一笑に付すべきだった。

 けれど、ここ数日の違和感が僕を突き動かしていた。あの魔獣番の娘。獣たちに愛され、声を持たぬのに誰よりも雄弁で感情豊かな瞳を持つ少女。彼女が「処分される」と聞いた時、胸の奥が軋んだ。


 今夜、同じ馬がまた夢に現れた。


 ――今夜だ。今夜、姫様が暖炉の前で真実を語る。頼む、聞いてやってくれ。


 馬が人語を解するはずがない。まして、夢に入り込むなど。

 けれど、あの娘の周りでは不思議なことが起きる。凶暴な魔獣が懐き、骨だけの馬の頭蓋骨が時折カチカチと顎を鳴らす。

 もしかしたら、この夢もまた……。


 僕は自嘲気味に息を吐いた。


 一国の皇太子が、夢のお告げに従って真夜中の書庫に忍び込むなど。父上が知ったら何と言うだろうか。

 けれど、足は止まらなかった。


 通気口に耳を近づける。

 しばらくは何も聞こえなかった。藁の擦れる音、獣の寝息、風の唸り。


 そして――



 その夜。

 私は眠れぬまま、誰もいない厩舎の片隅で膝を抱えていた。アレクサンデル様に会いたい。最後に一目だけでも。そして、もし許されるなら、本当の言葉で想いを伝えたい。


 立ち上がろうとしてよろめく。檻を掴みながら厩舎の奥、古い鉄の暖炉へと向かった。

 殿下が言っていた。この暖炉は隣の建物と繋がっている、と。通気口から声が漏れる可能性がある、と。


 けれど、隣の建物に人がいるはずがない。そして何より……あの呪いの首輪の発動条件は「他者に真実を伝えようとする意思」だ。

 この鉄の暖炉は人ではない。耳も持たないただの物体だ。だから、ここに独り言を吐き出すだけなら、呪いは発動しないはず。即死することはないはず。


 自分に言い聞かせても、首筋が締め付けられる恐怖は消えない。だけど、明日には処分されるかもしれない。このまま口にせず消えていくことだけは、どうしても耐えられなかった。


「……聞いて、お願い。誰にも言えない私の話を」


 強張った唇を開く。

 首元がちりちりと微かに熱を帯びるが、焼き付く痛みはない。やはり独り言なら許されるのだ。


「私の名前は……リリアーナ。魔獣番の娘なんかじゃないの。この国に嫁いできた、本当の王女なのに」


 一度口に出してしまうと、せき止めていたダムが決壊した。

 森の中でマリエッタに水を飲まされたこと。声と身分を奪われた屈辱。愛馬のファラダが目の前で殺された時の絶望。誰にも信じてもらえない孤独。暗闇に向かって、私は嗚咽が漏れるのも構わず訴え続けた。煤で顔が汚れても気にせずに。


「でも、一つだけ。神様がくれた救いがあったわ」


 私は胸の前で手を組み、浮かんでくる銀髪の青年の笑顔を思い浮かべた。


「アレクサンデル様……あの方と出会えて、本当によかった。言葉は交わせなかったけれど、あの方が向けてくださった優しさだけが、今の私を繋ぎ止めているの」


 雫が頬を滑り落ちて灰の中に落ちる。


「もっと早くお会いしたかった。侍女の服ではなく、美しいドレスを着て。魔獣番としてではなく、貴方の婚約者として……堂々と、貴方のお隣を歩きたかった」


 首元が熱を帯びてきた。

 私は最後の力を振り絞り、一番伝えたかった言葉を吐き出した。


「お慕いしておりました、アレクサンデル様……さよなら」


 すべての想いを吐き出し、私は力が抜けてその場に崩れ落ちた。煤まみれの暗闘の中で、私の嗚咽が虚しく響いた。



 通気口から流れ込んでくる彼女の声を、僕は身じろぎ一つせずに聞いていた。


 リリアーナ。


 その名を聞いた瞬間、脳裏に雷が落ちた。


 森の中で侍女に裏切られた。声を奪われ、身分を入れ替えられた。愛馬を殺された。


 あの傲慢な婚約者は偽物。リリアーナの侍女、マリエッタという女だった。あいつは本物の姫を騙って僕の前に現れていたのだ。


 本物の姫は。

 あの、声なき魔獣番の娘。


 拳を握りしめた。怒りが込み上げてきた。

 これまでの人生で感じたことのない、内臓を焼き尽くす激しい怒り。あの傲慢な女、マリエッタに対してではない。彼女の苦しみにも気づかず、のうのうと「偽物」を婚約者として扱い、あまつさえリリアーナをこの手で守ってやれなかった自分自身への怒りだ。


 ……すまなかった。


 石壁に拳を叩きつけて呻く。


 本当にすまなかった……!


 通気口の向こうからは、彼女の押し殺した泣き声が聞こえてくる。今すぐ壁を打ち破り、煤まみれの彼女を抱きしめてやりたい。「君が本物だったのか」と告げ、その涙を拭ってやりたい。


 だが、僕は踏みとどまった。

 今ここで感情のままに動けば、マリエッタを取り逃がす可能性がある。あの女には、死よりも重い、社会的な破滅と絶望を与えなければならない。彼女が受けた屈辱を、倍にして返すために。

 そして何より「魔獣番」が本物の婚約者だと言うからには、公衆の面前で「真実」を暴き、正当性を証明する必要がある。


 ふと、頭上に淡い光が灯った。

 見上げると、蒼白い燐光を纏った馬の霊体が佇んでいた。首に赤い線を刻んだ、夢に現れたあの馬だ。


「……お前が、ファラダか」


 馬はゆっくり頷いた。


「姫様の『万象の対話』の力がなけりゃ、俺様はとっくに消えてた。殿下の夢に入れたのも、姫様の魔力が無意識に俺を支えていたからだ」


 馬が人語を解し、夢に入り込む。荒唐無稽だと思っていたことは現実だった。


「……姫様を、頼む」


 ファラダの声には、死してなお消えぬ忠誠が滲んでいた。


「言われるまでもない」


 僕は顔を上げた。

 胸の奥で心が切り替わる。皇太子としての覚悟へ。


 明日の婚約披露宴。あの場には両国の貴族が集まる。

 マリエッタが自らの口で「罪人への罰」を語り、それをそのまま己に執行される。これ以上の舞台はない。


「ファラダ。僕に協力してくれ」


 馬の霊体は、獰猛な笑みを浮かべた。


「待ってたぜ、その言葉。俺様の首を刎ねた女狐に、たっぷり礼をしてやらねえとな」


 僕は踵を返し、闇の中へと歩き出した。

 明日、すべてが終わる。そして、すべてが始まる。


 彼女を、必ず取り戻す。

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