第3話 侍女の悪意
穏やかな日々が破られたのは、七日目の昼下がりのことだった。
「アレク様! こんなところに隠れていらっしゃったのね!」
キンキンと響く高い声と共に、厩舎の扉が乱暴に開かれた。強烈な薔薇の香水の匂いが、藁の素朴な匂いを塗りつぶす。
現れたのは、豪奢なシルクのドレスに身を包み、宝石をジャラジャラと身につけたマリエッタだった。
殿下の表情が、一瞬にして冷厳な皇太子へと戻る。
「……マリエッタか。ここは足元が悪い。部屋に戻っていなさい」
「嫌ですわ。わたくしもご一緒しますの。だって、わたくしは獣を愛する姫なのですもの」
マリエッタは扇子で口元を隠しながら、値踏みする視線を厩舎内に巡らせた。そして、隅で水桶を抱えていた私を見つけると、露骨に顔をしかめた。
「あら、まだいたの? その汚らしい魔獣番。……アレク様、このような身分の卑しい者を側においてはいけませんわ。病気が移りますもの」
私に向けられた軽蔑の眼差し。かつて私の侍女だった頃の、卑屈な笑みはどこにもない。今の彼女は、完全に王族の皮を被った暴君だった。
「彼女は優秀な世話係だ。口を慎め」
殿下の声が低くなる。しかし、マリエッタはそれに気づかないふりをして、グリフォンの方へと歩み寄った。
「見ていてくださいませ、アレク様。わたくしにかかれば、このような野蛮な獣などすぐに手懐けて……きゃあっ!?」
マリエッタが触れようと手を伸ばした瞬間、グリフォンが翼を大きく広げ、威嚇の咆哮を放った。強烈な風圧に煽られ、マリエッタは無様に尻餅をついた。
「ひ、ひぃっ! な、なによこの駄獣! わたくしを誰だと思っていますの!?」
恐怖で顔を引きつらせながらも、マリエッタは喚き散らす。グリフォンの瞳が赤く輝き、鋭い嘴が彼女に振り下ろされようとした――そのときだ。
駄目っ!
私は水桶を放り出し、二人の間に割って入った。
言葉は出ない。けれど、私は両手を広げ、グリフォンの目を真っ直ぐに見つめた。
落ち着いて。この子はただの愚か者。あなたの誇りを汚す価値もないわ。
心の中で必死に語りかける。グリフォンはピタリと動きを止め、鼻を鳴らすと、私の肩に頭を乗せて甘える仕草を見せた。
静寂が戻った厩舎で、アレクサンデル殿下がその光景を見つめていた。ドレスを着て床に這いつくばる「姫」と、ボロを着て魔獣を鎮める「魔獣番」を。その対比はあまりにも残酷で、そして真実を雄弁に語っていた。
「……マリエッタ。獣は人の心を見抜くと言う。其方は、少し香水を控えた方がいい」
殿下の冷ややかな言葉に、マリエッタは顔を真っ赤にして立ち上がった。恥辱と怒りに震えるその目は、殿下ではなく、私に向けられていた。
「……おぼえてらっしゃい」
去り際、すれ違いざまにマリエッタが私の耳元で囁いた。その声は、毒蛇の冷たさと湿り気を帯びていた。
「明日、あなたの処分が決まるわ。……目障りな虫は、早く潰さないとね」
扉がバタンと閉まる。
後に残されたのは、重苦しい沈黙だった。
「……大丈夫か?」
殿下は気遣わしげに私の肩に手を置いた。けれど、私の耳には何も入ってこなかった。
処分。処分とは……?
マリエッタのことだ、きっと私を殺す気だ。あるいは、二度と戻れない荒野へ売り飛ばすつもりだろう。ここでの穏やかな日々は、やはり幻だったのだ。
私は力なく首を横に振り、殿下に一礼して厩舎の奥へと下がった。
このままだと、彼の前で取り乱す姿をさらしそうだったから。




