表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泣きながら告げた『さよなら』は、皇太子が通気口の向こうで聞いていた  作者: 藍沢 理


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第3話 侍女の悪意

 穏やかな日々が破られたのは、七日目の昼下がりのことだった。


「アレク様! こんなところに隠れていらっしゃったのね!」


 キンキンと響く高い声と共に、厩舎の扉が乱暴に開かれた。強烈な薔薇の香水の匂いが、藁の素朴な匂いを塗りつぶす。

 現れたのは、豪奢なシルクのドレスに身を包み、宝石をジャラジャラと身につけたマリエッタだった。


 殿下の表情が、一瞬にして冷厳な皇太子へと戻る。


「……マリエッタか。ここは足元が悪い。部屋に戻っていなさい」

「嫌ですわ。わたくしもご一緒しますの。だって、わたくしは獣を愛する姫なのですもの」


 マリエッタは扇子で口元を隠しながら、値踏みする視線を厩舎内に巡らせた。そして、隅で水桶を抱えていた私を見つけると、露骨に顔をしかめた。


「あら、まだいたの? その汚らしい魔獣番。……アレク様、このような身分の卑しい者を側においてはいけませんわ。病気が移りますもの」


 私に向けられた軽蔑の眼差し。かつて私の侍女だった頃の、卑屈な笑みはどこにもない。今の彼女は、完全に王族の皮を被った暴君だった。


「彼女は優秀な世話係だ。口を慎め」


 殿下の声が低くなる。しかし、マリエッタはそれに気づかないふりをして、グリフォンの方へと歩み寄った。


「見ていてくださいませ、アレク様。わたくしにかかれば、このような野蛮な獣などすぐに手懐けて……きゃあっ!?」


 マリエッタが触れようと手を伸ばした瞬間、グリフォンが翼を大きく広げ、威嚇の咆哮を放った。強烈な風圧に煽られ、マリエッタは無様に尻餅をついた。


「ひ、ひぃっ! な、なによこの駄獣! わたくしを誰だと思っていますの!?」


 恐怖で顔を引きつらせながらも、マリエッタは喚き散らす。グリフォンの瞳が赤く輝き、鋭い嘴が彼女に振り下ろされようとした――そのときだ。


 駄目っ!


 私は水桶を放り出し、二人の間に割って入った。

 言葉は出ない。けれど、私は両手を広げ、グリフォンの目を真っ直ぐに見つめた。


 落ち着いて。この子はただの愚か者。あなたの誇りを汚す価値もないわ。


 心の中で必死に語りかける。グリフォンはピタリと動きを止め、鼻を鳴らすと、私の肩に頭を乗せて甘える仕草を見せた。


 静寂が戻った厩舎で、アレクサンデル殿下がその光景を見つめていた。ドレスを着て床に這いつくばる「姫」と、ボロを着て魔獣を鎮める「魔獣番」を。その対比はあまりにも残酷で、そして真実を雄弁に語っていた。


「……マリエッタ。獣は人の心を見抜くと言う。其方は、少し香水を控えた方がいい」


 殿下の冷ややかな言葉に、マリエッタは顔を真っ赤にして立ち上がった。恥辱と怒りに震えるその目は、殿下ではなく、私に向けられていた。


「……おぼえてらっしゃい」


 去り際、すれ違いざまにマリエッタが私の耳元で囁いた。その声は、毒蛇の冷たさと湿り気を帯びていた。


「明日、あなたの処分が決まるわ。……目障りな虫は、早く潰さないとね」


 扉がバタンと閉まる。

 後に残されたのは、重苦しい沈黙だった。


「……大丈夫か?」


 殿下は気遣わしげに私の肩に手を置いた。けれど、私の耳には何も入ってこなかった。


 処分。処分とは……?

 マリエッタのことだ、きっと私を殺す気だ。あるいは、二度と戻れない荒野へ売り飛ばすつもりだろう。ここでの穏やかな日々は、やはり幻だったのだ。


 私は力なく首を横に振り、殿下に一礼して厩舎の奥へと下がった。

 このままだと、彼の前で取り乱す姿をさらしそうだったから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ