第2話 魔獣スキ殿下
殿下が厩舎を訪れるようになって、五日が過ぎた。
彼は公務の合間を縫って、毎日この薄暗い小屋に足を運んでくれる。
「……ここをブラッシングすればいいのか?」
煌びやかな軍服の上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げた皇太子殿下が、真剣な表情でグリフォンの首元にブラシを当てている。傍から見れば不敬極まりない光景だが、グリフォンは気持ちよさそうに嘴をカチカチと鳴らし、殿下に頬を擦り寄せていた。
もう少し右です、殿下。そこは古傷があって敏感ですので。
私が身振りで伝えると、殿下はすぐに意図を汲み取ってくれる。
「ああ、なるほど。ここか。……ふふ、くすぐったいな」
グリフォンの羽が鼻先をくすぐったのか、殿下が警戒の解けた顔を見せる。
その表情を見るたびに、私の胸は締め付けられる。同時に、胸が温かくなっていく。言葉は交わせない。けれど、穏やかな沈黙と、獣たちの寝息、そして時折交わす視線だけで、私たちの間には確かな絆が生まれつつあった。
*
「おいおい、あいつまた来やがったのかよ。暇な王子様だな」
壁のファラダが呆れ声を上げるが、その声色にはどこか楽しげな響きがある。
「だがまあ、あの女狐と一緒にいるよりは百倍マシか。なあ、リリ」
そうなのだ。
殿下は時折、ブラシを動かす手を止めて、憂鬱そうに溜息をつくことがあった。
「……婚約者が、聖獣の儀式を急かしてくるのだ」
六日目の夕暮れ、殿下はグリフォンの背にもたれかかりながら、ぽつりと漏らした。
「彼女はこの国に来てから、一度も獣たちに触れようとしない。それどころか、香水の匂いがきつすぎて、近づくだけで獣たちが興奮してしまう……本当に彼女は、伝説の『獣語りの姫』なのだろうか」
その疑惑は正しい。
けれど、私は肯定も否定もできない。ただ黙って、新しい桶に水を汲むことしかできなかった。もどかしさに爪が掌へ食い込む。
「……この厩舎、奇妙な造りだな」
殿下は立ち上がり、厩舎の奥へと歩いていった。私は慌てて後を追う。
「この暖炉、煙突が妙な方向に伸びている。おそらく、隣の建物と繋がっているのだろう。昔は城の一部だったのかもしれん」
殿下は煤けた鉄の暖炉を興味深げに眺めていた。その目は、建築物を調査する学者の鋭さを帯びていた。
「通気口があるな。ここから声が漏れる可能性がある……。もし誰かがここで秘密の話をしたら、隣で聞かれてしまうかもしれん」
殿下は冗談めかして笑ったが、私の鼓動は跳ね上がった。
通気口。隣の建物に繋がっている。
その情報を、私は心の片隅に刻み込んだ。




