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泣きながら告げた『さよなら』は、皇太子が通気口の向こうで聞いていた  作者: 藍沢 理


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第2話 魔獣スキ殿下

 殿下が厩舎を訪れるようになって、五日が過ぎた。

 彼は公務の合間を縫って、毎日この薄暗い小屋に足を運んでくれる。


「……ここをブラッシングすればいいのか?」


 煌びやかな軍服の上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げた皇太子殿下が、真剣な表情でグリフォンの首元にブラシを当てている。傍から見れば不敬極まりない光景だが、グリフォンは気持ちよさそうに嘴をカチカチと鳴らし、殿下に頬を擦り寄せていた。


 もう少し右です、殿下。そこは古傷があって敏感ですので。


 私が身振りで伝えると、殿下はすぐに意図を汲み取ってくれる。


「ああ、なるほど。ここか。……ふふ、くすぐったいな」


 グリフォンの羽が鼻先をくすぐったのか、殿下が警戒の解けた顔を見せる。

 その表情を見るたびに、私の胸は締め付けられる。同時に、胸が温かくなっていく。言葉は交わせない。けれど、穏やかな沈黙と、獣たちの寝息、そして時折交わす視線だけで、私たちの間には確かな絆が生まれつつあった。



「おいおい、あいつまた来やがったのかよ。暇な王子様だな」


 壁のファラダが呆れ声を上げるが、その声色にはどこか楽しげな響きがある。


「だがまあ、あの女狐と一緒にいるよりは百倍マシか。なあ、リリ」


 そうなのだ。

 殿下は時折、ブラシを動かす手を止めて、憂鬱そうに溜息をつくことがあった。


「……婚約者が、聖獣の儀式を急かしてくるのだ」


 六日目の夕暮れ、殿下はグリフォンの背にもたれかかりながら、ぽつりと漏らした。


「彼女はこの国に来てから、一度も獣たちに触れようとしない。それどころか、香水の匂いがきつすぎて、近づくだけで獣たちが興奮してしまう……本当に彼女は、伝説の『獣語りの姫』なのだろうか」


 その疑惑は正しい。

 けれど、私は肯定も否定もできない。ただ黙って、新しい桶に水を汲むことしかできなかった。もどかしさに爪が掌へ食い込む。


「……この厩舎、奇妙な造りだな」


 殿下は立ち上がり、厩舎の奥へと歩いていった。私は慌てて後を追う。


「この暖炉、煙突が妙な方向に伸びている。おそらく、隣の建物と繋がっているのだろう。昔は城の一部だったのかもしれん」


 殿下は煤けた鉄の暖炉を興味深げに眺めていた。その目は、建築物を調査する学者の鋭さを帯びていた。


「通気口があるな。ここから声が漏れる可能性がある……。もし誰かがここで秘密の話をしたら、隣で聞かれてしまうかもしれん」


 殿下は冗談めかして笑ったが、私の鼓動は跳ね上がった。

 通気口。隣の建物に繋がっている。

 その情報を、私は心の片隅に刻み込んだ。

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