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泣きながら告げた『さよなら』は、皇太子が通気口の向こうで聞いていた  作者: 藍沢 理


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第1話 声なき魔獣番と氷の皇太子

 カツ、カツ、カツ。

 石畳を叩く、硬質で規則正しい足音が近づいてくる。


「おい、リリ。誰か来やがったぞ」


 厩舎の柱に打ち付けられた馬の頭蓋骨が、青白い燐光を眼窩に灯してささやいた。


「しかも、ただの兵士じゃねえ。あの高そうな靴音は……」


 私はブラシを握る手を止め、息を殺した。

 厩舎の重い扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開かれる。逆光の中に、背の高い人影が立っていた。


「……ここか。近頃、魔獣たちが妙に大人しいという噂の出所は」


 冷気を孕んだ、低く美しい声。

 脈が跳ね上がった。その声の主を、私は知っている。国境で出迎えを受けたとき、遠目に見ることしか叶わなかった人。銀の髪に、氷の青い瞳を持つ方。


 アレクサンデル皇太子殿下。


 本来ならば、私の夫となるはずだった人が、そこに立っていた。


 私は反射的にその場に膝をつき、深く頭を垂れた。

 今の私は、垢じみたチュニックをまとい、藁と獣臭にまみれたただの「魔獣番」だ。


 十日前までは隣国スリッポンの王女リリアーナとして、この方に嫁ぐはずだった。けれど、私の首には呪いの首輪が嵌められ、声を奪われている。

 彼が私を見ても、一国の王女だと気づくはずがない。


「……面を上げよ」


 頭上から降ってきた声は、噂通りの絶対零度だった。

 私は恐る恐る顔を上げる。殿下の切れ長の瞳は、私ではなく、その背後にいる巨大なワイバーンに向けられていた。


「グルゥ……」


 凶暴なはずの飛竜は、攻撃するどころか、大きなあくびをしてゴロンと横になった。無防備に腹を見せ、尻尾をパタパタと振って藁を巻き上げている。


「……なんだ、これは」


 殿下の眉がぴくりと動いた。

 氷の仮面が、ほんの少しだけひび割れる。信じられないものを見る目で、甘える巨大な飛竜を見つめ、殿下は独り言のようにつぶやいた。


「ワイバーンが、これほど無警戒に腹を見せるとは。……もしや、弱っているのではなく、リラックスしているのか?」


 私は慌てて頷いた。


 誤解されて処分されてはたまらない。身振り手振りで、「彼は元気です、ただお腹がいっぱいで眠いだけです」と必死に伝えようとする。


『おいリリ、見ろよ。あの王子の顔』


 壁のファラダが、私にだけ聞こえる声で忍び笑いを漏らす。


『あの目は獲物を狙う目じゃねえ、な。ありゃあ、猫を見つけたときの貴族令嬢と同じ目だ』


 私は改めて殿下の顔を見た。

 驚いたことに、先ほどまでの冷徹な気配は消え失せていた。青い瞳はキラキラと輝き、頬は微かに紅潮している。吸い寄せられるように、一歩、また一歩と檻に近づいていく。


「美しい……鋼鉄の鱗に、この強靭な翼。図鑑で見た通りの完璧な個体だ。しかも、こんなに愛らしい寝顔を見せるとは……」


 ……愛らしい?

 牛を一飲みするこの凶暴な飛竜を?


 殿下は檻の格子の隙間から手を伸ばそうとして、引っ込めた。触れたい。けれど、警戒されて指を食いちぎられるかもしれない。そんな葛藤が見て取れる。

 私は思わず立ち上がって彼に近づいた。ワイバーンの鼻先を撫でて「大丈夫」と示し、恐れ多くも殿下の手を取り、ヴェルの額へと誘導する。


 殿下の身体が強張った。

 けれど、ヴェルは低い唸りを漏らし、殿下の手のひらに自ら鼻先を押し付けた。


「っ……!」


 殿下が息を呑む。

 硬質で冷たい鱗の感触と、その下に流れる温かい命の鼓動。彼は感動に打ち震え、ゆっくりと、愛おしそうに飛竜の頭を撫でた。


「柔らかい……いや、硬いが、温かいな。……いい子だ」


 その声の、なんと優しいことだろう。

 氷の皇太子と呼ばれた人が、こんなに温かい声を出せるなんて。私はその横顔に見惚れてしまった。整った目鼻立ちが綻び、年相応の少年の笑顔がそこにあった。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。本来ならば、私はこの人の隣で、共に笑い合うはずだったのに。


「……そなたが、手懐けたのか?」


 不意に、殿下が私に向き直った。至近距離で見据えられ、私は息が詰まる。


「これほど気性の荒い魔獣を、魔法による強制もなしに、ここまで懐かせるとは。……そなた、名は?」


 名前。私の名前はリリアーナ。

 そう答えようとした瞬間、首元のチョーカーがじりっと熱を帯びた。声が出ない。私は唇を噛み締め、俯いて首を横に振った。


「……話せないのか?」


 私は小さく頷く。

 彼は一瞬、痛ましいものを見る目を向けたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「そうか。無理を聞いてすまなかった。……だが、言葉など不要なのかもしれんな」


 彼は再びヴェルの頭を撫でながら微笑む。


「城にいる人間は、皆、口を開けば嘘ばかり吐く。甘言を弄し、腹の底では別のことを考えている者ばかりだ。……私の婚約者となった姫も、な」


 ドキッとした。偽物の「リリアーナ姫」――マリエッタのことだ。


「だが、ここには嘘がない。魔獣たちは正直だ。そして、彼らがこれほど心を許しているそなたもまた、清らかな魂を持っているのだろう」


 殿下は真っ直ぐに私を見据えた。その瞳には、先ほどまでの冷たい品定めの色はなく、純粋な敬意と好意が宿っていた。


「気に入った。……また、ここに来ても良いだろうか? 名もなき魔獣番よ」


 断る理由などあるはずがない。

 私は目頭が熱くなるのを堪えながら、深く、深くお辞儀をした。



 足取り軽く去っていく殿下の背中を見送った後、壁のファラダが盛大に鼻を鳴らした。


「へっ、とんだお笑い草だぜ。あの王子様、姫様に向かって『清らかな魂』だなんて口説き文句を吐きやがった。中身が本物の婚約者だとも知らねえでよ」


 茶化さないでください、ファラダ。


 私は熱くなった頬を両手で包み込んだ。


「しかし妙だな」


 ファラダが首を傾げる。


「あの首輪の認識阻害は、お前の顔を『誰の印象にも残らない』ようにするんだろ? なのに王子の野郎、お前のことをしっかり認識してやがる」


 言われてみれば、確かにおかしい。

 あの呪いの首輪をはめられたとき、マリエッタはこう言っていた。「獣や霊には効かないけれど、あなたの周りにいるのは人間だけでしょう?」と。


「……もしかして、あの王子様、魔獣どもに相当好かれてるんじゃねえか? 獣に愛される者には、認識阻害が効きにくいとか」


 ファラダの推測に、私の胸が高鳴った。

 もしそうなら、殿下は私のことを覚えていてくれる。この汚れた姿のままでも、私という存在を認識してくれている。


 絶望しかないと思っていたこの場所に、小さな光が差し込んだ気がした。



 そもそも、なぜ私がこんな場所にいるのか。

 ファラダ――かつては私の愛馬だった彼が、こうして骨だけの姿で現世に留まっているのか。


 すべては十日前、国境を越える直前の森で起きた。

 侍女のマリエッタが差し出した水筒を、疑いもせずに口にした瞬間、焼ける激痛が喉を襲い、声を奪われた。地面にうずくまる私を見下ろして、マリエッタは嗤った。

 彼女は私のドレスを剥ぎ取り、呪いの首輪を嵌め、アーティファクト「姫の首飾り」を自分の首にかけた。あの首飾りは、着用者を「リリアーナ姫の肖像画」そっくりに見せる魔道具だ。


 本来なら私の影武者が使用するものを。


 マリエッタは、幼い頃から私の傍で育った平民の娘。彼女がどれほど王族の座を渇望していたか、私は知らなかった。毎晩、私のドレスを羨ましそうに眺めていた視線の意味を、私は見落としていたのだ。


 そしてマリエッタは、私の愛馬ファラダの首を刎ねさせた。


 けれど、私の持つ『万象の対話』――動物や幻獣、そして霊的な存在と心を通わせる力が、ファラダの魂を現世に繋ぎ止めた。三日間の苦しみを経て霊体として安定した彼は、こうして私に文句を垂れ続けている。時折、私の夢の中に現れて励ましてくれることもある。


 私に成り代わったマリエッタは、私をこの魔獣厩舎に押し込めた。気性の荒い幻獣たちに噛み殺される「不幸な事故」を期待して。

 けれど彼女は知らなかった。私が「獣語りの姫」であり、獣たちに愛される体質だということを。


「グルル……」


 ワイバーンのヴェルが心配そうに私を見上げ、ざらついた舌で頬を舐めた。


『泣くな、小さき者よ。俺たちがついておる』


 頭の中に、低い声が直接響く。


 ありがとう、ヴェル。


 私はワイバーンの鼻先を撫でて口元を綻ばせた。

 贅沢な暮らしはできなくても、ここには彼らがいる。そして今日、思いがけない光が差し込んだ。

 アレクサンデル様が、また来てくださると言った。

 それだけで、私は明日を生きる理由ができた気がした。


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