第二話 働いていませんが、働いているんです。④
あの後、和光委員長に言われて例の散々な目に遭ったバイト先に向かうと、そこには既に先客がいた。『広報委員会』と名の入ったベストを制服の上に着た人たちが、報道カメラを例のビルの入口に向けていたのだ。
「ついに来たんだね。この加古川イチョウが有名人になる日が」
「別の意味でもう有名だと思うよ。それも全国中でね」
先日の乗艦式に唯一遅刻した彼女はテレビカメラにばっちりその姿を捉えられている。
「委員長が来た。撮るぞ」
取材班を率いていると思わしき学生が指示を飛ばすと、カメラ担当は一斉に和光委員長の姿を撮り始めた。彼女は部下を十名ほど引き連れ、堂々と歩みを進めてビルの入口で停止した。
「只今より、『ながとビルメンテナンス』に対する臨検を開始します。始めなさい」
部下たちは敬礼し、続々とビル内に入っていった。そして報道カメラたちは、一瞬たりとも見逃すまいとその姿を写真に収める。
「江坂さん、青山さん、加古川さん。着いてきて」
カメラのシャッター音が鳴り響く中、和光委員長とともに私たちは再びあのビルの中に入った。ビルの中では金山さんが待っていて、再び笑顔で私たちを迎えた。
「なるほど、そういうことですか。あなたたちが通報したのですね」
「だって給料少なかったんだもん!しかも給料渡してすぐいなくなっちゃうし」
「そうですか?計算は間違っていないと思いますが」
和光委員長は臨検を行う旨の書面を金山さんに見せ、臨検の開始を改めて宣言した。
「貴方は『ながとビルメンテナンス』の社員ですか?先ほど予告した通り、今から臨検を開始します」
「かまいませんよ。私たちは法令遵守に努めていますから」
「あら、殊勝な心掛けね。ただ私の経験則からすれば、『法令遵守』などという耳触りの良い言葉を発する会社ほど、法令を遵守していないものよ。単刀直入に聞く。貴方たちの会社、給料ちょろまかしてるでしょう?」
「心外ですね。きちんとお支払いしていますよ」
「『仮眠時間』には給料を払っていないのに?」
「『仮眠時間』は実質的には休憩時間ですから。こちらの映像をご覧いただくとよく分かりますよ」
金山さんはまるでこうなることを予想していたかのように『社用』と書かれたスマホを取り出した。その画面には、管理人室ですやすやと眠りについているイチョウの姿がばっちり捉えられていた。
「えっ、撮ってたの!?このヘンタイっ」
「このような状態の人間が働いていると言えるのですか。言えないでしょう」
「金山さんのヘンタイ!その映像消してよ!」
「イチョウ、問題はそこじゃないと思う……」
「金山さん、と言いましたか。貴方は何か思い違いをしていますね。ここに映っている加古川イチョウさんは間違いなく働いていますよ」
「は……?」
「青山さん。伺いますが、金山さんからは勤務内容についてどのように説明されましたか」
「たしか、『何か異常があれば適切に対処してください』と」
「そうすると、たとえ仮眠をしていても、何か異常があれば彼女たちは直ちに起床し、それに対処することを他ならない貴方から義務付けられていたわけです」
金山さんは笑顔ながらも、少し語気を強める。
「そうかもしれませんね。しかしながら、彼女たちが仮眠をとっている間、実作業を何ら行わなかったことは事実でしょう。私たちはそれを『労働』ではなく『休憩』と呼ぶのです」
「労働時間に当たるかどうかは、使用者すなわち会社の指揮命令下に置かれていたかどうかにより判断する、という判例の有名な定式があります。つまり、私たちは労働から離れる自由があって初めて『休憩』と呼ぶのですよ」
「そんな判例は知りません」
「ならお調べになると良いでしょう。平成十四年二月二十八日の最高裁判決です」
「うわっ、年月日まで覚えてるんだ……」
私たちも法科高専で勉強を重ねていけば、和光委員長のようになるのだろうか。あのようにすらすらと判例をそらんじることができ、自由自在に論理を展開できるような人に。
金山さんは慌ててスマホで判例を調べ、画面を見る目を左から右へと動かす。しかしその目は、判決文のある一文で止まったようだった。
「ふふ、ははっ。委員長、一つ見落としている点がありますよ。『実作業の必要が生じることが皆無に等しい』場合には労働時間に当たらない、と判例も認めているじゃないですか!私は彼女たちに言いましたよ。『異常なんて今まで一度も起こったことがない』とね。異常に対応することなど皆無に等しいのですよ」
「金山さん、私がそんなくだらないミスをするとでもお思いですか?だとしたら、それが間違いであることを今から証明して差し上げます。そろそろ報告が来る頃です」
和光委員長が言い終わるのと同時に曽根崎と湊町がやってきて、
「委員長。こちらが先ほど発見したアルバイト用マニュアルと過去の勤務報告書です」
といくつかの資料を手渡した。
「ご苦労。ふむ……『異常は今まで一度も起こったことがない』というのは嘘のようですね。これらの勤務報告書には、火災報知器が鳴動した、停電が起こった、モニターの電源が切れた、など様々な『異常』が報告されていますよ」
「そ、それは……なぜ……」
「報告書をシュレッダーにかけるなんて、この私によくも手間をかけさせたな。だが私はジグゾーパズルが趣味なのだ。これくらい修復することなど造作もない」
曽根崎はそう言って胸を張る。
「へえ、人は見かけによらないねえ」
「お前……いつもいつも、なんで私のことをバカにするんだ!」
こればっかりはノンデリなイチョウが悪い。曽根崎に罪はない。
「そしてこのマニュアル。これは想定される異常ではなく、実際にあった異常への対処法を記したものですね。したがって、『実作業の必要が生じることが皆無に等しい』とは言えません」
その瞬間、金山が一貫して保ってきた貼り付けたような笑顔は崩れた。そしてその声が初めて震えた。
「和光クロネ……お前、私より年下のくせに調子乗りやがって。大体な、労基法のどこにも『労働時間に当たればその時間分の賃金を与えないといけない』なんてルール書いてねえだろ!」
「詭弁ですね。あなたはよく労基法をお読みになっているようですが、法律の字面を読むくらいは誰にでもできます。たしかに労基法には仰るような条文はありません。ですが、普通に考えて、雇用契約を結ぶ際、働く側はどう思うでしょうか」
「働けば働いた時間分だけ、給料がもらえる」
当然の摂理だ。しかし、あまりにも当たり前すぎてそれを意識することはなかった。
「ええ。それが一般的な考え方です。仰る通り金山さんは私より先輩ですから、まさか社会一般の考え方というものを知らないで生きてきたわけではないでしょう。そうすると、金山さんも加古川さんたちも、『労働時間に当たればその時間分の給料をもらう』ということを暗黙の前提にしていたはずです」
このあたりからイチョウは頭をかき人差し指を右へ左へ動かしていた。いまいち話の流れがつかめないでいるらしい。
「うーん、なんかよく分かんなくなってきたなあ。結局どういうこと?」
「つまり、金山さんと貴方たちの間には、『働けば働いた時間分だけ、給料がもらえる』というルールがあった、ということよ」
和光委員長はここまでを淡々と正確に述べ、私たちの周りに静寂をもたらした。その静寂は、和光委員長が圧倒的に優勢であることを示していた。
「屁理屈ばっかり並べやがって!法律家はいつもそうだっ!御託ばっかり並べて経済の邪魔をする!誰が〈ながと〉という街を動かしてると思ってるんだ」
「あー、そういう態度取っちゃうかー。何が〈ながと〉を動かしているのか、教えてあげないといけないわね。曽根崎委員、思いっきりやっちゃいなさい」
「いいんすか、じゃ遠慮なく。おいお前、さっきはこの私にジグソーパズルさせてくれてありがとうな。全ッ然面白くなかった」
「ジグソーパズルが趣味だったのでは……?」
「金山、お前こそなあ、あんま風紀委員に向かって調子乗るなよ。大体お前、経営大学の二年生にもなってこんなしょうもない事件起こして恥ずかしくないのか?明日の自治会新聞の一面トップ確定だな。『給料をちょろまかしたケチんぼ大学生』ってな!あはは!」
「このチビッ!いい加減にしろ!」
曽根崎のどう見ても安っぽい挑発にうかつに乗ってしまった金山は曽根崎に殴りかかった。拳が空を切り、曽根崎の顔に向かう。しかし曽根崎は、その拳を受け止めて手首を軽くひねり、鈍い音を立てた。そして痛がる金山に後ろから湊町が掴みかかって、あっという間に彼女を制圧してしまった。
「十七時十分、自治会務執行妨害罪で現行犯逮捕する」
「本当に残念だわ、金山さん。あそこで余計な反論をしなければ見逃してあげていたのに、つまらない女ね。〈ながと〉を動かしているのは〈法〉であり、決して貴方たちではない。肝に銘じておくことよ」
金山は恨めしそうな目でこちらを見たけれど、曽根崎と湊町に引きずられるようにして連行されていった。
「つまらない議論だったわ。中途半端な知識だけ持っている人が一番面倒ね」
和光委員長はそう呟くと、私たちの方に向き直った。
「金山さんには貴方たちに給与の残額を支払うよう命じておくわ。おそらくは素直に従ってくれるはずよ」
「……和光さん。一点だけお伺いしてもよろしいですか?」
ミヤさまはひどく真面目な顔をして、冷たく尋ねた。
「あなたは『〈ながと〉を動かすのは〈法〉だ』とおっしゃいました。ですが、実際にはそうは思っていないのではありませんか?〈法〉に従うなら、曽根崎さんにあのような挑発をさせてわざと逮捕するなどという姑息な手段はとらないと思うのですけれど」
和光委員長の灰銀の目が少しだけ笑った。
「ええ、そうよ。〈法〉は支配の道具に過ぎないわ」
和光委員長は現れた時と同じように、颯爽と私たちのもとから離れていった。その姿は、冷徹な支配者そのものだった。
第二話の参考判例は、大星ビル管理事件(最判平成14年2月28日民集56巻2号361頁)です。仕事内容はかなり変更している部分があることをおことわりしておきます。




