第一話 権利の濫用は、これを許さない。③
「いやあ、また一つ、正義を実現しちゃったね」
加古川イチョウは、焼きそばパンをむしゃむしゃと食べながら満足そうに言う。さっきのお礼として、作業服の少女から貰ったパンだ。そのおかげでコンビニに行く必要がなくなり、私たちは寮に戻ることにしたのだ。
「あんたは曽根崎とじゃれあってただけじゃん。あと何、『かわいそうだから』って。絶対教官の話聞いてなかったでしょ」
「え、アカリん、今あたしのこと『あんた』って呼んだーっ!ひどーい!そう思わない?ミヤちゃん」
「……人の話を聞かないだなんて、これからの講義が思いやられますわね」
青山お嬢はまた少しだけ照れているが、その理由が分かった。『ミヤちゃん』という言葉に反応しているのだ。まだそう呼ばれることに慣れていないらしい。
「ですが」
青山お嬢は足を止め、加古川イチョウの方に向き直った。
「あの時イチョウさんが声をかけていなければ、あの作業服の少女はきっと泣き寝入りだったでしょう。あなたのおかげです、ありがとう」
「そうね。それに関しては、イチョウのおかげ」
私も、イチョウを褒めるのは何となく癪に障るけれど、あの子を救ったのは間違いなくイチョウの功績だ。
「えっ、今、二人ともあたしのこと名前で呼んでくれた!やったあ!ありがとう、みゃーちゃん、アカリんっ!」
そう言うと、イチョウは私たち二人にくっついてくる。さっきは気づかなかったけれど、いつの間にかイチョウはもっと馴れ馴れしくなっていた。アカリんってなんだよ、あっかりーんとでも言わせたいのか。
「み、みゃー……?コホン、それから、江坂さん。江坂さんさえよろしければ、なのですが、お互い下の名前で呼びませんか。私たちはもう、その……友達、なのですから」
「うん。いいよ、その……ミヤ、ちゃん、さん、さま……?」
「なんじゃそりゃ、ミヤさまって誰それ。女王様じゃん」
「うっさい!」
照れ隠しにイチョウのふわふわ髪を軽くはたこうとすると、彼女は俊敏に避け、にやりと笑って見せた。やっぱりこいつ、面倒くさい。
「ふふ、嬉しいですわ、アカリさん。ありがとうございます」
ミヤさまから感謝されるのは純粋に嬉しい。イチョウもミヤさまを見習ってほしいものだ。けれど、この三人でやっていくのも悪くないと、そう思えた夕暮れだった。
* * *
作業服のあの子の話によると、彼女が設置していた通信ケーブルは放送部がやっている〈ながと〉非公式ラジオ『オフレコながと』のもので、彼女自身、放送部の技術班に所属しているそうだ。一方、学生自治会も公式ラジオ『ながと日報』を放送しているけれど、放送部のラジオの方が人気で、自治会はそれを快く思っていない。そこで、風紀委員会を通じて放送部に嫌がらせをしようとしたのではないか、ということらしい。
「学生自治も良いことばかりじゃない、ということですわね」
寮に戻り、私たち三人はミヤさまが入れてくれた紅茶を飲みながら話していた。
「あの先生もすごかったよねえ、一発であの風紀委員のこと黙らせちゃったんだもん。でもあの後すぐいなくなっちゃって、お礼も言えなかったや」
イチョウは紅茶をあろうことかがぶ飲みし、話を続ける。
「でさ、私思いついたことがあって。私たちさ、これから五年間、一緒に法律のこと勉強していくわけじゃん。それでさ、何か目標決めない?それで、五年後に目標を達成できたかもう一度ここで、話すの」
「目標、ねえ……イチョウをまともな人間にする、とか?」
「ちょっと何それ!あたしが今やばい人ってことじゃん!」
「うん」
ひどーい、とイチョウはぷんすか怒って私からカップを奪い取り、せっかく味わいながら飲んでいた紅茶を一気に飲み干した。え、本当に何をしているの?イチョウにハサミを取られた曽根崎の気持ちが少しだけ分かった気がする。ホントわけわかんないよね、あいつ。
「目標、決まりましたわ」
ミヤさまが静かにそう言うと、何勝手に人の紅茶飲んでんだ、と言い争っていた私たちもまた静かに彼女の言葉を聞くことにした。
「私だけの〈法〉を見つけること。これが私の目標ですわ」
「何それ、すごくかっこいいじゃん!その心は?」
「多分ですけれど、私たち三人は、それぞれ〈法〉の捉え方が違うと思うのです。いえ、多分人の数だけ〈法〉の捉え方は違いますわ。ですから、この五年間の船旅で、〈法〉とは何かという究極の問題に対する答えを探したいのです」
「〈法〉とは何か、かぁ……〈法〉は法じゃない?法そのものというより、法を使って何をするかだよ!なんか今、あたしかっこいいこと言えた?言えたよね!」
「〈法〉なんて、何もしてくれないよ。私たちを助けてくれるような存在じゃないと思う」
そう、〈法〉はあの時、何にもしてくれなかった。今日の事件で、民法一条三項が適用されるのだって、たまたまだ。その背後には、〈法〉が見棄てた人たちだって、たくさんいるはずなのだ。
「アカリん……」
イチョウは私の方を振り向いて、少し気まずそうな声を発した。場が一瞬だけ静まり返る。
「……私は、〈法〉が進歩することでより良い社会に近づいていくのだと、そう信じていますわ。やっぱり三人で、捉え方が違うものですわね。これから一緒に、答えを探していきましょう。約束です」
「破ったら針千本飲ます、ってやつでしょ!指切りもする?」
「イチョウ、それもう百年前の言葉だから」
〈法〉は何にもしてくれなかった、その思い自体は今も変わらない。でも、この三人で一緒に勉強していけば、変われるのかもしれない。ミヤさまもイチョウも、それぞれ違う考え方を持っている。この二人は、私の考えを変えてくれるのかもしれない。私だって、普通の人たちと同じように、〈法〉が人々を守ってくれると、信じたいのだ。
「ところで、まだこの部屋のルールを決めていませんでしたわね」
「あ、そうだった。忘れちゃってたね」
「よおし、今すぐ決めちゃおう」
「ええ。ですが、部屋のルールは一つだけで十分でしょう。卒業まで一緒にいる、ただそれだけです」
その瞬間、わずかばかり残っていたカップの中の紅茶が、ほんの少しだけ揺れた。学園艦〈ながと〉が、呉の港を出航したのだ。そして、私たちの長い旅も、出航する。
第一話 終
第一話の参考判例は、いわゆる宇奈月温泉事件(大判昭和10年10月5日民集14巻1965頁)です。戦前の判例のため最高裁の裁判例検索ではヒットしませんが、民法の教科書では必ず最初に取り上げられる判例であり、今なお重要であることには変わりありません。




