第一話 権利の濫用は、これを許さない。②
寮の外はもう夕日が差し人通りも落ち着いて、耳をすませば波音がかすかに聴こえてくる。しかし、波音が聴こえることはほとんどない。加古川イチョウが延々と喋り散らかしているからだ。
「あたしの地元ってすっごい田舎で、近くの山にはタヌキがよく出たなあ。タヌキの鳴き声って知ってる?あたしも聴いたのは二、三回くらいなんだけど、『キューン』とか『クゥーン』って感じ。すっごくかわいいんだよ」
左耳から右耳へと聞き流していたので、なんで今コイツがホンドタヌキの話をしているのか全く分からないけれど、タヌキが鳴くのは基本的に威嚇している時だと図鑑に書いてあったような。
適当な相槌でやり過ごしていると、加古川イチョウは突然その足を止めた。
「ん?コンビニはもう少し先だよ」
「あそこ、何してるんだろ」
その指差す先のだだっ広い空き地を見ると、三人の女子生徒たちが何やら言い争っている。そのうち二人は制服に白地の腕章を付けており、その二人が残り一人と口論しているようだ。
「ちょっと見てくる!」
待って、と言う暇もなく加古川イチョウは口論の現場に駆けていった。厄介な人間というのは自ら厄介事を生み出すだけでなく、なぜか厄介事に首を突っ込んで厄介を呼び寄せてくる性質があるらしい。
「加古川さんとはまだ出会ったばかりですが、彼女は何をしでかすか分かりません。私たちも行きましょう」
青山お嬢に促され、私も加古川イチョウの後を追う。
「すみませーん、どうしたんですか?」
「あ?なんだお前。お前には関係ない話だ」
さっきの腕章は少し砂で汚れていて、『風紀』と書かれており、その腕章を巻いた二人のうち背の高い方が加古川イチョウに対してぶっきらぼうに答える。その気持ちは分かる。そんな間の抜けた声で質問されて答える気になんてならないよね。
「えーっと、私は加古川イチョウって言います!そして、こっちの二人は……」
まさかとは思うけれど、なんだお前と言われてそれを、自己紹介をして下さいという意味に捉えたんですか、あなたは。
「うるさい!風紀委員に何か文句でもあるのか、君たちは!」
業を煮やしたもう一人の風紀委員、つまり背の低い方が声を張り上げた。さしもの加古川イチョウもビックリして目が点になっている。
「私たちは〈ながと〉学生自治会風紀委員だ。見ればわかるだろう。校則違反を取り締まっているだけだ!」
「曽根崎さん、どうやら彼女たちは新入生のようだ」
風紀委員--高度な学生自治を謳う学園艦〈ながと〉では学生自治会が艦内の行政の大部分を仕切っている、というのは有名な話だけれど、取り締まりまで学生がやるという、本物の学生自治だ。決して、義務教育でやるような生徒会ごっこではない。
「ふん。新入生だからって容赦はしない。風紀委員には君たちを取り締まる権限がある。服装の乱れだけじゃないぞ、重大犯罪以外の校則違反は全て私たちが取り締まる。違反者は最悪の場合退艦処分だ。私がその気になれば、君たちだって--」
曽根崎と呼ばれた背の低い方の風紀委員が捲し立てる。おそらく普段から同じようなことを言っているのだろう、全く噛むことなく矢継ぎ早に言葉が出てくる。さすがにまずいと思ったのか、もう一人の方がたしなめた。
「それくらいにしておきましょう。また、『風紀委員こそ風紀を守れ』と言われてしまいます」
「えーと、あんまり聞いてなかったんですけど、結局今は何をされてるんですか?」
「「「本当に何も聞いてないなお前!」」」
風紀委員の二人と私の台詞が完全に一致した。加古川イチョウという人間は自分の興味のあることしか聞かない。そばに居る青山お嬢も呆れた目をしている。
「こいつ、こいつを取り締まってんの。邪魔だから早くどっか行け」
曽根崎という風紀委員は、お世辞にも清潔とは言えない作業服を着た女子生徒の方を指さした。
「彼女が何をしたのですか?」
聞き役に徹していたと思われた青山お嬢が曽根崎に問う。その声は、何の迷いもないただ真っ直ぐな声だ。
「え、あ、ああ……こいつは、学生自治会が所有する土地に無断で通信用のケーブルを引いたんだ。所有権の侵害だからすぐに撤去するよう命令したのだが、言うことを聞かんのでな。今からケーブルを切断し、こいつには罰金を払わせる」
「わ、私は何も悪いことなんてしてません!たしかにケーブルは引きましたけど、でもあの土地は誰も使ってないし、ケーブルだってちょっと掠めてるだけじゃないですか!」
「『ちょっと掠めてるだけ』だと?立派な所有権侵害だろう!それと、あの土地は昨日、風紀委員会の所有になった」
「一昨日もあなた方はこの辺をパトロールされていましたが、その時は何も言わなかったじゃないですか!なんで今更……」
「とにかく、ケーブルを撤去しないなら風紀委員の方で撤去するぞ。湊町、ハサミはあるか」
「やめてください!そのケーブルは……」
たしかに所有権は絶対的な権利だ。自分の家の中に突然訳の分からんケーブルが引かれたら誰だって怒るだろう。私だって怒る。でも、こんなただの空き地で、しかもちょっとケーブルが掠めているだけで所有権侵害だと言うのは、おかしい。そんなことが、許されていいはずがない。横暴だ、それは。でもそれを上手く言葉にできる自信はない。
「待ってよ!その子、嫌がってるじゃん!」
加古川イチョウはそう言い放つと、もう一人の風紀委員である湊町が取り出したハサミを奪い取った。
「おいお前、何をする!返せっ!今度は窃盗か?このっ、このっ、わけわかんないっ」
加古川イチョウはここにいる中で一番背が高く、曽根崎という風紀委員は一番背が低い。加古川イチョウは曽根崎の手が届かない高さにハサミを持ち上げた。親にゲーム機を取り上げられた子供みたいで、正直ちょっとかわいい。
「君たちの制服、法科高専のものだろう。我々風紀委員には艦内の『秩序』を守る責任がある。たとえ軽微な所有権侵害であっても、それを見逃せばどうなる?行動はどんどんエスカレートし、今度はもっと重大な侵害になるだろうな。そうなってからでは、取り返しがつかない」
加古川イチョウと曽根崎が親子ごっこをしているのをよそに、湊町は私たちに向かって言った。それもあくまでも淡々と。彼女には、忠実な執行者という役がよく似合う。
「湊町さん。あの土地は風紀委員会の所有なのですか?」
青山お嬢が口を開く。その声は、加古川イチョウに対するそれよりも更に冷酷であり、お嬢様してのオーラも相まって並の人間なら泣き出すか逃げ出すほどだ。
「ああ。学生自治会告示第三十号に基づき、昨日、風紀委員会が所有権を取得した。したがって、私たちには所有権に基づいてこのケーブルを撤去する権利がある」
「しかし、あなた方が一昨日ここをパトロールした際には、特に問題視していなかったはずです。あなた方の行動はあまりにも矛盾しています。まるで、このケーブルを切断するためにわざわざ所有権を取得したかのようですわね」
なるほど、筋は通っている。そもそもなぜ風紀委員会が、こんな何にもない空き地を所有する必要があるのだろう。艦内の秩序維持とは何の関係もないはずだ。
「それが何か?今、我々はこの土地を所有している。あの少女は勝手に我々の土地にケーブルを引いている。それ以外に何か撤去するために要件が必要か?必要だというのならば、それは民法の何条に書いてある?教えてほしいものだね、法科高専の新入生さん」
「……っ」
青山お嬢は口をつぐんだ。湊町は、私たちが反論できないのを分かっていて言っている。反論できない私たちをあざ笑うかのように、湊町は加古川イチョウの方へ向かう。ハサミを奪い返すつもりだ。ここで止めないと、あのケーブルは切られる。
「……待って!」
湊町は今度は呆れたように振り返った。
「まだ何か?」
「……えっと、その、ケーブルを切断するのに法的根拠なんてあるんですか」
ここは何とか注意をこちらに向けないと。加古川イチョウがハサミを持って走り去るでも何でもすれば、とりあえずこの場は何とかなる。あいつがそんな機転の利いたことができるのかは分からないけれど、やれることは何でもやるしかない。
「はは、君の考えてることくらいわかる。私も風紀委員三年目だ、時間稼ぎをしようとする連中なんて何度も見てきた。法的根拠など後でいくらでも教えてやる」
そして湊町は、加古川イチョウから手慣れた手つきでハサミを取り返し、
「曽根崎さん、執行の宣言を」
とハサミをケーブルに当てた。その声は、真冬のようにひどく冷たい声だった。
「お願いします、お願いします、お願いですから……」
作業服の女の子は泣きじゃくりながら湊町に縋りつく。なのに、湊町はまるで彼女がそこにいないかのように振る舞っている。悔しいけれど、これが〈法〉なんだ。〈法〉は私たちを助けてくれるわけじゃない。〈法〉は、何もしてくれない。
「民法何条か、教えてやろうか」
私たち全員が無力さを感じる中、沈みかける夕日をバックに現れたのは、白衣を身にまとった大人の女性だった。
「また部外者か。お前には関係のない話ーー」
曽根崎はその女性の左胸に取り付けられたネームプレートを見て、ばつが悪そうに言葉を止めた。『法科高専教官 北白河エリカ』、その女性の名前だった。
「教官でしたか、失礼いたしました。しかし教官、わが学園艦には学生自治が保障されており、たとえ教官であっても原則として自治会に対する介入は許されないはずです」
すかさず湊町がフォローする。しかし彼女は忠実な執行者、教官を目の前にしても物怖じすることはない。
「ああ。だから今から言うのは君たち風紀委員に対する忠告、あるいは私の独り言だ」
北白河という教官は、白衣のポケットからボールペンを取り出すと、それをくるくる回し始めた。
「この学園艦が造られる百年以上前の話だ。とある鉄道会社が温泉を経営していたのだがね。温泉にはお湯を引いてくる水道管が必要だろう?だがその水道管は、そのごく一部が他人の土地の上に引かれていたんだ」
北白河教官が今話しているのが本当の話なのかおとぎ話なのかは分からないけれど、まさに今、私たちが置かれた状況に似ている。鉄道会社が作業服の彼女で、水道管は通信ケーブル。
「教官、私たちの時間は有限なのです。お話は端的に」
湊町が苛立ち始めた。彼女も、自分たちの置かれた状況が教官の話と似ていることを理解しているはずだ。
「もちろん。それを耳にしたある男ーーF君としようーーは、その土地を安く買った。F君はこう思ったわけだ。『これを鉄道会社に高値で売りつければ、一儲けできる』とね。そこでF君は、水道管を撤去するかその土地を買い取れ、と鉄道会社に言い寄ったわけだ。当然F君は、鉄道会社が撤去してくれるなんて思っちゃあいない。鉄道会社の足元を見てたんだ」
「F君がわが風紀委員だとでも言いたいのですか、教官」
「まあ聞け。鉄道会社は困った。温泉業は彼らの重要な収入源で、水道管を撤去するなんてどだい無理な話だ。そこで裁判になったわけだ。裁判所がどう判断したか分かるかね?そこの、金髪の」
指名を受けた加古川イチョウは自分が指されるなんて思っていなかったようで、しばらくどぎまぎしながらようやく答えた。やっぱり人の話を聞いてないだろ。
「えっと、かわいそうなので鉄道会社の、勝ち?」
「フッ、『かわいそう』だな、たしかに。だが、法律論において『かわいそうだから』では理由にはならない」
「ならば裁判所は、そのF君の主張を認めるほかありません。F君は所有権を持っている。鉄道会社はそれを侵害している。必要な事実はそれだけです」
湊町が口をはさむ。北白河教官が何を言いたいのかわからず、ますます苛立っているようだ。
「〈法〉はF君みたいな小悪党を野放しにはしないさ。民法一条三項、『権利の濫用は、これを許さない』。裁判所は、F君の主張を否定したのだよ」
権利濫用。その言葉は、私たちにとって救世主のような存在だった。今まで言葉にできなかったもやもやが一気に晴れるような気がした。そうだ、風紀委員たちのやっていることは権利濫用なのだ。たしかに所有権はあるし、その侵害もある。でも、所有権という武器を持っていても、好き勝手振り回していいわけじゃない。
「君たちはさっき、彼女たちに『民法何条に書いてある』と聞いたな。答えは民法一条三項ではないかね?」
「しかし教官、ここは学園艦〈ながと〉。今仰った話が仮に本当だとしても、それが〈ながと〉で通用するかは別の話だ」
湊町は余裕がなくなってきたようで、教官に対して敬語を忘れてしまっている。
「もちろん。だが作業服の彼女は、学園艦審判所に提訴できる。風紀委員としての権利を濫用した、とな。そうすれば被告は君たちになる。君たちは目立ちたがり屋さんかね?なら、止めはしない。私からのアドバイスは以上だ、風紀委員殿」
完全論破。風紀委員たちは何も言い返さない。もし審判沙汰になれば、きっと全校生徒に批判の目にさらされるだろう。それは彼女たちにとっても困るだろう、ということだ。湊町はハサミを鞄にしまい、曽根崎の方はというと、いまいち話の内容が理解できなかったらしくぽかんとしている。
「曽根崎さん、ここは一度退きましょう。繁華街で不純同性交友でも摘発したほうが早く帰れますよ」
不純同性交友って何、と尋ねるヒマもなく風紀委員たちはその場を立ち去った。そして、沈みかけていた夕日は沈んだ。ケーブルは、守られたのだった。




