第三話 アンチ運動教 ②
「く、楠葉さん?体育の授業を受けない、ってどういう意味ですか?」
たった今『アンチ運動教』の成立を宣言し体育の受講を拒否した楠葉さんに対し、舞洲教官は弱々しく尋ねた。
「そのままの意味です。動かざること山の如し、私は体育の授業で体を動かすことはありません」
今のは武田信玄公の軍旗である『風林火山』の一節から引用したものだ、ということは私でもわかった。けれど、ミヤさまは眉をぴくりと動かしただけで引用元には触れなかった。
「ええと……体力測定をしないと体育の単位が出ませんが……」
学園艦の学生であっても、一般の学生と変わりなく全国統一の体力測定テストが初回の授業で行われる。その時のテスト結果は成績に影響しないけれど、テストを受けること自体は必須とされている。
「それは困る。だが私は宗教上の理由により体育を受講することができません。したがって『配慮』を求めます」
楠葉さんは真顔で舞洲教官に対してきっぱりと要求した。よくもまあそんな屁理屈を堂々と言えるものだと少し感心してしまった。周りのクラスメイトたちからは「それなら私も」とか「ずるい」などと様々な声が上がる。
「配慮……?」
ここで舞洲教官も「我が辞書に『配慮』という二文字は存在しない!」とでも言えばやり返せるだろうに強く出られない辺り、本当に体育教師らしくない。もっとも、ナポレオンが「我が辞書に敗北という文字は存在しない」と言ったというのは後世の創作なのだけれど。
「その通り。代わりにレポート課題を出してもらえれば取り組みます。なぜなら人間は考える葦だから」
「……はあ。パスカル『パンセ』ですわ」
「体力測定の種目に『レポート』はないのですが……でもでも、体育は楠葉さんの健康にとっても大事なんですよ。楠葉さんも健康に過ごして元気に長生きしたいでしょう?」
舞洲教官は口をぱくぱくさせながらも必死に言葉を発して最後の抵抗を試みた。けれど楠葉さんは、
「大きなお世話です。私は『不幸になる権利』を求めているのです」
と一言で制してしまった。
「あら、急に二十世紀の作品にまで進みましたわね。ハクスリー『すばらしい新世界』ですわ」
「楠葉さんの中では、運動しなくていい世界が『すばらしい新世界』なんだろうね」
「『すばらしい新世界』はディストピア小説なのですけれどね」
それはさておき、気弱な舞洲教官にはもう打つ手なしである。教官は一分ほど遠い目をして、
「はあ、仕方ないですね。今日のところは一旦見学扱いにします」
と説得を諦めてしまった。
「ふははっ!汗をかくこと、それ即ち背信者なり」
楠葉さんは青い空に向かって拳を高く突き上げた。
「あの、ええと……そこでじっと見学しておいてくださいね」
「無論。汗をかくことなど背信者のすることですから」
楠葉さんはそう胸を張ると、近くのベンチに座った。
「いいなぁ。私も『アンチ運動教』に入信していいですかー?」
イチョウがひらひらと手を挙げて楠葉さんに尋ねた。
「もちろん歓迎するぞ、同志」
「ちょっとイチョウ、やめてあげなよ。舞洲教官、もう半泣きだよ」
「加古川さん、それは……ちょっと……」
小柄な舞洲教官は、上目遣いをしつつ震える声でイチョウに懇願する。
「ええと、舞洲教官がかわいいので入信を取り止めます!」
「かっ、かわいいだなんてそんな……」
舞洲教官は今度は顔を下に向けて火照った顔を隠そうとしていた。まさか恋に落ちたんじゃないよね?
離れたところに座っていた女子数名が鼻血を出しながら「舞洲教官が『受け』かな」なんてコソコソ話している様子がちらりと見えたけれど、姫ってる場合ではない。
* * *
私たち三人は放課後、なぜか担任の北白河教官に職員室に呼ばれた。教官からの伝言を伝えに来た総務にその理由を聞いても「さあ……」という返事しか返ってこなかったので、理由は知る由もない。
「職員室に行くのって、なんか緊張するよねえ」
中身が空っぽになった学校指定の鞄を振り回しながらイチョウが言う。中身の教科書は全て置き勉にするため、教室に置いてきたのだという。
「学校の職員室とはそんなにも恐ろしい場所なのですか?」
当然ながらミヤさまは職員室の実物をそもそも見たことがないのだろう、もっともな疑問をぶつける。
「職員室にいる先生たちの目がなぜか怖いし、そして職員室に行くのは大体怒られる時だし」
「そうそう、怒られる場所!でも何かやらかしたっけ……」
「あんたは存在そのものがやらかしてんのよ」
軽口を叩きながらも私たちは階段を上り、職員室の場所を探す。
「フロアマップがありますわね。……北白河教官の部屋はこちらを真っ直ぐ行った突き当たりのところですわ」
「へえ、各教官それぞれの部屋があるんだ」
「教官によって個性が出そうですわね」
廊下の窓からは夕日が射し込み、北白河教官の部屋の扉をオレンジに照らしていた。時刻は既に十七時を過ぎている。
法科高専では九十分授業が五コマ連続で行われ、八時に授業が始まるというのに終わりは十七時過ぎ。改めて考えると、なかなかハードなスケジュールをこれから毎日送ることになるのだ。職員室にしょっちゅう呼ばれるのは勘弁したい。
「失礼いたします。一年一組の青山ミヤです。江坂さん、加古川さんも一緒です」
またも気だるそうな「どうぞ」の声で私たちは部屋に入った。
「わあ、結構広いんだ」
部屋にはソファが二台、テーブルも一脚と簡単な応接間が仕立てられているほか、執務机や本棚も取り揃えられており、ベッドがないことを除けば十分ここで生活していけそうなくらいだ。
「呼び出してすまんな。適当なところに座りたまえ」
部屋の中でも常に白衣をまとっているらしい北白河教官は執務机に座ったまま、椅子を動かしてコーヒーメーカーに手を伸ばした。執務机にはやはりというべきか、色々な物が散乱している。
「飲むか?」
「お手洗いに行きたくなるので」
「お気持ちはありがたいのですが、私は紅茶派なのですわ」
「コーヒーなんて苦くてまずいじゃん」
私、ミヤ、イチョウは全員コーヒーを断った。にしてもイチョウは教師に対しても失礼だ。さぞかし職員室の訪問経験も豊富に違いない。
北白河教官は自分用のマグカップを手に取ると、私たちとは反対側のソファーに座って早速話し始めた。
「君たちにはお願いしたいことがあってね。体育の舞洲教官から報告を受けた--うちのクラスの楠葉が体育の受講を拒否した、と。君たちには彼女を説得して体育の授業を受けさせて欲しいのだよ」
ここで一旦話を区切った北白河教官はコーヒーをすすった。コーヒー特有の匂いが私たちの間を漂う。
「そういうのは総務の仕事じゃないんですか」
「彼女には荷が重いし、そういうのは君たちの方が向いていると思ってね。ほら、この前の『ケーブル事件』でも」
「あっ、あの時は助けていただいてありがとうございました」
私が慌てて頭を下げると、ミヤさまとイチョウもそれに倣って頭を下げた。
「いいや。私は単に『知識』を教えたにすぎない。君たちはいわば『勝手に助かっただけ』だな」
「どこかのアロハシャツのおっさんが言いそうな台詞ですね」
「ほう、詳しいじゃないか。……それはさておき、君たちも忙しいだろうが、ここは一つ借りを返すということで引き受けてくれないかね?」
「えーっ、なんか報酬とかないんですか?」
イチョウが素っ頓狂な声で北白河教官に尋ねた。逆に聞くけれど、借りを返すのになんで報酬が貰えると思うのだ。
「ふっ。加古川くん、君のそういうところは気に入っているぞ。そうだな……逆に何が欲しい」
「うーん、お金!」
「済まないが、薄給の国家公務員ゆえ手持ちのお金はない」
「それなら……授業の単位!」
「そんなことをしたら艦則違反でクビになってしまう」
「全然報酬あげる気ないじゃないですか!」
「ははは。まああげる気などハナからないのだが」
「教官!あまり乙女をもてあそばないでくださいっ!」
イチョウはむくれてそっぽを向いてしまった。
「一つ質問してもよろしいですか」
今度はミヤさまが北白河教官に尋ねた。
「教官自身が説得するという選択肢はなかったのですか」
「君は実に勘のいいガキだねえ。だが考えてもみたまえ。私がここに楠葉を呼んでお説教をしたところで、彼女はただ大人に対する反発を覚えるだけだ……君にはそういう経験はあるかね?」
「……ありません」
ミヤさまは少し目を伏せ、首を横に振った。嫌味な言い方だと思った。教官は多分、ミヤさまの出自を知っている。
「だろうな。だからこそ、学生である君たち自身が解決する必要があるのだよ。何より〈ながと〉は学生自治の街、学生のためだけの街でもある」
どうやら私たち三人はこの部屋に来た時点でもう逃げ道はなかったらしい。こうして私たちは極めて不本意ながら、楠葉さんに体育の授業を受けさせるという難題に取り組むことになったのだった。




