第99話「“贈る”って、手を離すことじゃない」
主役:あおば・いと
舞台:駅の見送り、自宅、手紙
春の風が少しだけ冷たくて、でも優しくて。
あおばは、小さな包みを両手で握りしめていた。
中には、菜の花の刺繍を添えた白いハンカチと、一枚の手紙。
「……渡したら、終わっちゃう気がするんだよね」
あおばはぽつりと言った。駅のホーム。友人の乗る電車がもうすぐ来る。
「ずっと作ってたやつ?」
隣に立ついとが、あおばの手元を見る。
「うん。あの子、もうすぐ引っ越しだから……。でも、これ渡したら……“おしまい”ってなる気がして」
「ううん」
いとはゆっくり首を振る。
「それは、“はじまり”になるよ。届けたら、また違う形で続いてくの」
あおばは、不安そうに眉を寄せたまま、小さくうなずいた。
* * *
電車がホームに滑り込んでくる。
到着のアナウンス。ドアが開く。
乗り込む直前、友人が振り返った。
「はい、これ──あおばからの“またね”」
言葉にすると少し照れくさくて、でもあおばは両手で包みを差し出した。
友人が、驚いたように受け取る。
「手紙、あとで読んでね。中、見てくれたらわかるから」
言葉の代わりに、布にこめた“伝えたい想い”。
春の光の中で、電車がゆっくりと動き出す。
窓の向こう、友人が手を振る。あおばも、力いっぱい振り返した。
菜の花の黄色い刺繍。
それが、友人の手の中でふわりと揺れた気がした。
* * *
その夜。
部屋に戻ったあおばは、自分の机に広げられた刺繍布をじっと見つめていた。
そこには、部室でいとと律とともに作った大きな春の作品。
そして、ひと針ひと針、自分で刺した黄色の菜の花──「またね」の想いが咲いている。
「……ちゃんと、残ってるんだ」
布をそっと撫でながら、あおばはつぶやく。
渡した気持ちも、今ここにある気持ちも。
どちらも、なくならずに残ってる。
「贈るって、手を離すことじゃなかったんだね」
あおばは、部屋の窓をそっと開けた。
春の夜風が、ふわりと頬をなでて通り過ぎていく。




