第96話「“言葉”じゃなくて“針と糸”で」
主役:あおば
舞台:放課後の屋上、河川敷の土手、自宅
春が近づくと、空気の匂いが変わる。
ほんのり甘くて、風が少しだけ軽くなる。冬の終わりと、新しい季節の始まりの間で、あおばはずっとそわそわしていた。
だけど、その理由は──風のせいじゃなかった。
「引っ越すんだって。春に」
放課後、校舎の屋上で聞いたその一言に、あおばの胸はぎゅっとしぼられた。
小学校の頃からの友達、千夏が、転校するという。
たまに話すくらいの距離になっていたけど、それでも、ずっと心の中には残っていた大切な友達だ。
「……なんか、変な感じ」
屋上の手すりに腕を乗せて、夕方の風に揺れるグラウンドをぼんやり眺めながら、あおばは呟いた。
「言葉にしようとすると、なんかうまくいかなくて」
ありがとう、とか、さみしい、とか。伝えたいことはいっぱいあるのに、口に出そうとすると、どこか嘘くさくなってしまう。
そういうの、あおばはずっと苦手だった。
* * *
次の日、あおばはひとりで河川敷を歩いていた。
冷たい風の中に、少しだけ春の匂いが混じっている。
見渡すと、土手の斜面には黄色い菜の花がぽつぽつと咲き始めていた。
その色を見た瞬間、ふと胸の奥があたたかくなった。
──そっか。やっぱり、わたしの「ことば」は、針と糸の中にある。
自分が一番素直になれる場所。言葉よりも、ずっと自分らしく気持ちを伝えられる方法。
あおばはポーチから、黄色い刺繍糸を取り出して、陽の光にかざしてみた。
まぶしいほど明るくて、だけどどこか優しい。まるで「またね」って、そっと背中を押してくれるみたいな色だった。
* * *
夜、自分の机の上で、刺繍枠に布を張った。
白い布の上に、下描きもせず、そっと針を刺す。
ゆっくりと、丁寧に。迷いながらも、黄色の糸が花のかたちをなぞっていく。
最初はちょっと不格好だった。でも、不思議とそれが気にならなかった。
言葉で伝えられないものを、ひと針ひと針に込めていく。
「……“さよなら”じゃないよ。ちゃんと、“またね”って言いたい」
布の上に、ふんわりとした菜の花が少しずつ咲いていく。
あおばの“ことば”は、音にはならないけれど、きっと届く。
きっと、春風にのって。




