第86話「まだ決めなくていい、でも──」
「将来も、それ……続けるの?」
何気ない声だった。けれど、その問いは、心のどこかにひっかかったまま、しばらく動かなくなった。
教室の昼休み。進路表が配られて、クラスのあちこちから大学や専門学校の名前が飛び交う。
「将来の夢は?」「進学?就職?」
“何になるか”を決める言葉が、日々のなかにどんどん混じっていく。
その中で、わたしの刺繍道具は、静かすぎた。
*
「手芸って、趣味でしょ? 本気でやるには難しいっていうか……」
ある“大人”は、笑いながらそう言った。
否定じゃない。けど、そうじゃないとも言えなかった。
本気、ってなんだろう。
好き、って……それだけじゃ、だめなのかな。
「じゃあ私、ずっと“好きなだけの人”でいいのかな」
そんなことを考えながら、わたしは、部室の片隅でひとり、古いスケッチブックをめくっていた。
書きかけの図案たち。重ねた色鉛筆。にじんだ線。
その間から、ぽろりと落ちてきた、一枚の紙。
——まだ中学生だった頃に描いた、未完成の刺繍案だった。
ただ、花が好きで。
ただ、布に色が咲くのが楽しくて。
そんな理由で描いたものだった。
誰に見せるわけでもない。
未来の役にも、立つかどうかわからない。
でも、胸がふっと軽くなった。
*
部活のあと、ひとりで歩いた並木道。
すっかり葉の落ちた木々が、冷たい空を透かしていた。
「まだ、決められないな」
心の中で、ぽつりと呟いた言葉が、風に乗ってどこかへ流れていく。
「でも……それでもいいのかもしれない」
迷いながら、悩みながら。
それでも、針を持ち続けていたい。
“好きなだけの人”でも、
その“好き”をやめない限り、前に進める気がした。
*
夜、自分の部屋。
窓際に置いたスケッチブックを開いて、わたしは新しい図案を描きはじめた。
昔の未完成の花を、今の自分の線で描き直す。
そこにはまだ答えなんてない。けれど、
——わたしの“これから”の手が、ちゃんとある。
柔らかな照明の下で、布と糸がまた出番を待っていた。
「まだ決めなくていい。……でも、私は作るよ」
ゆっくりと、でも確かに。
針を持つその手には、明日へ続く力が宿っていた。




