第82話「敗けを知っても、手は止めない」
夕暮れに染まりはじめた放課後の街を、いととさゆりは並んで歩いていた。
行き先を決めていたわけではない。
気がつけば、自然と足が向いていた──あの手芸用品店。
木枠のドアを開けると、鈴の音が柔らかく鳴った。
平日の店内は人もまばらで、淡い照明の下、糸と布の香りが優しく包み込む。
二人は言葉もなく、糸の棚の前に立った。
赤、青、紺、オリーブ、クリーム、レモン、空色……
ずらりと並んだ刺繍糸は、どれもさっきまで知らなかった表情でそこにいた。
「ねぇ、なんか……」
さゆりがぽつりと言う。
「何を作るって決めてるわけでもないのに、また見に来ちゃったね、私たち」
いとは笑わなかった。ただ、頷いた。
「うん。……ちょっと、不思議だよね」
棚の一番下、静かなグレーの糸に目を留めながら、いとは続ける。
「こんなに悔しかったのに。負けた、って、ちゃんと感じたのに」
「それでもまた、“次”を探してる。針、持ちたいって思ってる」
となりのさゆりは何も言わず、少しだけ視線をいとの方へ向ける。
いとは、手の中でそっと糸巻きを回した。
「……わたし、たぶんそれが好きなんだ」
「作ってるときの、あの感じ。悔しさの先にも、針を動かしてる自分がいるのが、嬉しいんだと思う」
さゆりは、ようやく微笑んだ。
「それなら、最強だよ。いとは負けても、止まらないんだもん」
二人はそれから、何も買わずに店を出た。
カフェでミルクティーを飲んで、くだらない話をして、笑って。
夕焼けが空を赤く染めていくころ、帰り道の交差点まで来た。
信号が青に変わるのを待ちながら、いとが小さく言った。
「……次は、何を作ろうか」
その声は、とても静かだったけど、
まるで小さな灯のように、ふたりの行く道を優しく照らしていた。
信号が青になる。
針の先が、新しい布に触れるように──
二人は歩き出した。




