第70話「届けるために、縫う」
朝の工芸室には、まだ眠たげな光が差し込んでいた。
合宿最終日の朝。
誰よりも早く、いとは静かに椅子に腰かけ、作品を前に針を持っていた。
完成はすぐそこ。だけど、その“すぐ”が、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
刺繍枠に広がる風景——いや、風景というには、何かが違った。
糸の交差は、単なる模様ではなく、“記憶”のようで。
いとは、ぽつりとつぶやく。
「……これ、もう“私たちの風景”じゃないよね」
そっと現れたさゆりが、隣に座る。
「うん。でも、ちゃんと“私たちがこの夏、見た風景”が縫われてる」
いとは、布に浮かぶ色の重なりを見つめる。赤、青、金、墨……誰のものとも言い切れない色が、静かに混ざり合っていた。
「関係が、“物語”になったんだと思う」
さゆりの言葉に、いとはふっと肩の力を抜いた。
午前十時。最後の一針が、糸を通して布に落ちた。
「……できた」
4人が囲んで見つめる刺繍作品は、真っ直ぐじゃない。ときに歪み、ときににじみ、互いを塗り重ねながら描かれていた。
それでも、そのすべてに、“らしさ”が宿っていた。
完璧じゃない。でも、誰よりも“わたしたち”だった。
帰りのバス。夏の陽射しが窓ガラスに反射して、揺れている。
希音は窓に額を寄せ、ぽそりとつぶやく。
「この作品……誰かが“わたしも縫ってみたい”って思ってくれたら、いいな」
律がその言葉に目を細め、さゆりは嬉しそうに小さく頷いた。
いとは目を閉じ、そっと両手を重ねる。
(届けるために、縫う。それはきっと、“誰かの一歩目”になるために)
夕方。学校に戻った4人は、部室にまっすぐ向かった。
少し埃っぽいけど、なぜか落ち着くこの場所。
机の上に、そっと作品を置く。
誰も言葉は発さない。ただ、静かに、見つめる。
そこには、始まりから今までの、すべての“関係”が宿っていた。
風景じゃない。思い出でもない。
——これは、物語。わたしたちでしか、縫えなかったもの。
「……おかえり」
誰が言ったのかもわからない、小さな声が、部室に溶けていった。
それはきっと、この作品に向けた——静かな祝福だった。




