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糸と針と、わたしたち。  作者: 南蛇井
高校2年生

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70/150

第70話「届けるために、縫う」

朝の工芸室には、まだ眠たげな光が差し込んでいた。


 合宿最終日の朝。

 誰よりも早く、いとは静かに椅子に腰かけ、作品を前に針を持っていた。


 完成はすぐそこ。だけど、その“すぐ”が、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。


 刺繍枠に広がる風景——いや、風景というには、何かが違った。

 糸の交差は、単なる模様ではなく、“記憶”のようで。


 いとは、ぽつりとつぶやく。


 「……これ、もう“私たちの風景”じゃないよね」


 そっと現れたさゆりが、隣に座る。


 「うん。でも、ちゃんと“私たちがこの夏、見た風景”が縫われてる」


 いとは、布に浮かぶ色の重なりを見つめる。赤、青、金、墨……誰のものとも言い切れない色が、静かに混ざり合っていた。


 「関係が、“物語”になったんだと思う」


 さゆりの言葉に、いとはふっと肩の力を抜いた。


 午前十時。最後の一針が、糸を通して布に落ちた。


 「……できた」


 4人が囲んで見つめる刺繍作品は、真っ直ぐじゃない。ときに歪み、ときににじみ、互いを塗り重ねながら描かれていた。


 それでも、そのすべてに、“らしさ”が宿っていた。


 完璧じゃない。でも、誰よりも“わたしたち”だった。


 帰りのバス。夏の陽射しが窓ガラスに反射して、揺れている。


 希音は窓に額を寄せ、ぽそりとつぶやく。


 「この作品……誰かが“わたしも縫ってみたい”って思ってくれたら、いいな」


 律がその言葉に目を細め、さゆりは嬉しそうに小さく頷いた。


 いとは目を閉じ、そっと両手を重ねる。


 (届けるために、縫う。それはきっと、“誰かの一歩目”になるために)


 夕方。学校に戻った4人は、部室にまっすぐ向かった。


 少し埃っぽいけど、なぜか落ち着くこの場所。


 机の上に、そっと作品を置く。


 誰も言葉は発さない。ただ、静かに、見つめる。


 そこには、始まりから今までの、すべての“関係”が宿っていた。


 風景じゃない。思い出でもない。

 ——これは、物語。わたしたちでしか、縫えなかったもの。


 「……おかえり」


 誰が言ったのかもわからない、小さな声が、部室に溶けていった。


 それはきっと、この作品に向けた——静かな祝福だった。

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