第67話「はじまりの静けさ」
盛夏の朝。蝉の声を乗せた電車が、ゆっくりと駅に滑り込む。
いとたち手芸部の四人は、合宿用の荷物を抱えて、市外にある文化施設へとやってきた。
木造平屋の建物は、元は古い工房だったらしく、今は地域の創作活動に使われているという。静かで、時間の流れがゆっくりしている場所だ。
「涼しい……」
律がつぶやいた。建物の中に入ると、すうっと暑さが引いていく。太い梁、磨かれた木の床。古いのに清潔で、まるで“時間の厚み”そのものが居座っているかのような空気だった。
荷物を置き、合宿中の制作部屋となる工芸室を見学する。白いテーブルに、光の入る窓。刺繍枠や裁縫道具も、すでに整えられている。準備は万端。あとは、始めるだけ。
――でも、誰もすぐには作業に取りかからなかった。
部屋の隅で、糸のケースを開ける音だけが、小さく響いた。
話すでもなく、沈黙でもなく、静かな時間が流れていく。
「なんか……不思議な感じだね」
希音がぽつりと言うと、さゆりがふわりと笑う。
「たぶん、みんな“始まる”ってこと、ちゃんとわかってるんだよ」
「始まる?」
「うん。この合宿が“最後”の制作になるかもしれないって……気づいてるから」
その言葉に、誰も反論しなかった。
否定できないくらい、みんな同じ気配を感じていた。
夕食の時間。施設の食堂で、カレーライスを囲む。
献立はシンプルだけど、香りと湯気が落ち着きをもたらしてくれる。
「こうして一緒に過ごすのも、あと少しなんだな」
さゆりが、何気ない口調でつぶやく。
スプーンを持っていたいとの手が、ふと止まった。
「……それって、やっぱり卒業が近いから?」
「うん。でもそれだけじゃなくて、“ひとつの作品を一緒に作る”って時間は、きっと一度きりだから」
律も、希音も、何も言わなかった。ただ、口元に小さな笑みを浮かべながら、ご飯を口に運ぶ。その静けさが、逆にあたたかかった。
夜。部屋に戻ると、天井には小さなライトが灯り、虫の音が窓の外から入り込んでいた。
ベッドに腰を下ろしながら、いとはスケッチブックを開く。
でも、ペンは動かない。図案は決まっているはずなのに、手が止まる。
――本当に、これでいいのかな。
完成を意識するたびに、線が硬くなる。考えすぎて、自由がなくなっていく。
「ねぇ、いと」
隣のベッドから、さゆりが声をかけた。
「焦らなくていいよ。完成より、届けたいものが何かだよ」
「……届けたい、もの」
「うん。“これが伝わってほしい”って気持ち。それがなきゃ、作品ってただの“かたち”だから」
いとはゆっくりと視線を落とし、図案のページをめくる。
いつか描いた、ちょっといびつな円の刺繍案。――でも、それは今までで一番“自分の色”が出ていた図案だったかもしれない。
「……そうだね。ありがとう、さゆり」
静かな一日だった。けれど、確かに何かが“始まった”一日でもあった。
それは完成を急ぐためではなく、“ちゃんと届ける”ための始まり。




