第60話「交わらないまま、ほどけてく」
ミシンの音が止まった部室は、いつもより静かだった。
針と糸だけが動いているはずの空間なのに、どこかぴりついた気配が漂っている。
それは、さゆりの背中にじわじわと染みこんでくるようだった。
視線の先では、律が無言で刺繍枠に向かい、希音は机の上でスケッチをくるくる回している。二人の間には、言葉も視線も、交わらない。
「……うーん」
さゆりは唸るように小さく息を漏らした。
(この空気、絶対よくない。でも……どうしたらいいの?)
“部長”という立場。けれど、それがどう動けばいいかは、誰も教えてくれない。
その夜、いとは自室でひとり、あのタペストリーを見つめていた。
光に透けるように、重ねられた糸の層。その中心にあるのは、前回みんなで刺した“つなぎ目”。
いとが、小さく指先で撫でる。
「……私たち、ちゃんと結べてたよね」
声に出して、確かめるように呟いた。
あのときの刺繍は、少しいびつでも、温かかった。
言葉が足りなくても、気持ちはちゃんと重なっていた。
だけど今は——。
いとは目を閉じ、そっと額に手を当てる。
(なんで、こんなに遠くなっちゃったんだろう)
翌日、昼休みの図書室。
さゆりが刺繍の資料を探していると、ふと背後に人影を感じた。
振り返ると、そこには律の姿。
「あ……こんにちは」
「うん。……探し物?」
「ちょっとだけ。刺繍の本、気分変えたくて」
律はうなずくと、同じ棚の別の列を見始めた。
そのまま、しばらく沈黙が続く。けれど、完全な気まずさでもなかった。
「……ねえ、律ちゃん」
「うん」
「今の雰囲気、どう思ってる?」
律は手を止めて、ページの途中で目を伏せた。
「……壊したくないだけ。空気、って。だから……なるべく、黙ってる」
その声は、どこか自分を責めるようだった。
さゆりはしばらく何も言えなかった。
放課後、別の教室で絵を描いていた希音にも、さゆりは会いに行った。
「さゆりせんぱい、また顔がかたーいよー?」
「う、そうかな……ちょっと考え事」
絵筆を止めた希音は、ふっと笑って言った。
「ねえ、わたしね、手芸って“楽しい”がないと、続かないと思ってる」
「楽しい、か……」
「うん。正しいとか、上手いとかより、まずは好きなことしてたいの。だから、制限されるのはちょっとつらいな」
その言葉は、律の「空気を崩したくない」と正反対に聞こえた。
けれど、どちらも、きっと“本気”だった。
夜、いとはさゆりに電話をかけた。
受話器越しの声は、少し沈んでいた。
「ねえさゆり、私……わからなくなってきた。律ちゃんも、希音ちゃんも、ちゃんと向き合ってるのに、うまく繋げなくて……」
数秒の沈黙の後、さゆりは静かに、でもはっきり言った。
「いとが悩んでるとき、私がちゃんと“部長”にならなきゃね」
「さゆり……」
「私もずっと迷ってた。でも、決めた。ふたりを結ぶのは、いとじゃなくて、私の役目だよ」
その言葉に、いとは小さく息を飲んだ。
部長という立場。誰も教えてくれないけど、誰かがやらなきゃいけない役割。
そしてそれを、いとではなく、さゆりが選んでくれたこと。
「……ありがとう、さゆり」
「明日、ちゃんと話してみる。もう、黙ってないでおく」
交わらなかったふたりの糸。その間に、新しい手が差し出されようとしていた。




