第52話「ほどける瞬間」
春の光が部室の窓から射し込み、机の上に落ちた糸の色をやさしく照らしていた。
今日から、いとたちは“先輩”として本格的に動き出す。
「改めて、よろしくお願いします!」
明るい声と一緒に頭を下げたのは、元気で快活な一年生──希音。
そしてその隣、静かに立っていたのが、無口だけれど印象的な目をした律。
いとは、うんうんと勢いよく頷いた。
「こちらこそ、よろしくね! 部室、使いにくいところあったら言ってね。これから一緒に……」
「いと、ちょっと落ち着いて」とさゆりに笑われ、ようやく深呼吸。
──今日は、うまくやらなきゃ。
いとは少しだけ、肩に力が入りすぎていた。
昼休み。いとは張り切って、自作の「初心者用刺繍キット」を持ってきた。
中には、簡単な図案と針、糸、布のセット。初めてでも安心なように、丁寧に準備したつもりだった。
「これ使ってみてね。はじめの一針、ここから……あれ?」
台紙の留めが緩んでいて、中の針と糸がバラバラに。
「あっ、ごめん、壊れてる……なんで……」
声が揺れた。
希音は「大丈夫だよー」と笑って流したが、いとは顔を伏せてしまった。
せっかく準備したのに。ちゃんとしようと思ったのに。
──“また空回りだ……”
そのとき。
隣でしゃがんだ律が、無言のまま、落ちた糸を一つ一つ拾いはじめた。
そして、壊れた台紙を確認して、ポケットから紙テープを取り出す。
「……これで、なんとかなると思う」
小さな声。でも確かな手つきだった。
「……ありがとう。律ちゃん、ずっと見ててくれたんだね」
いとがそう言うと、律は少し照れたように、でも嬉しそうにうなずいた。
その日の放課後。
部室で片づけをしていると、さゆりがぽつりと呟いた。
「……いとに任せきりでいいのかな、ってちょっと思ってた」
「えっ、そんなことないよ! わたしも、うまくやれてなかったし……」
いとは思い出す。
“ちゃんとしなきゃ”と気負っていた自分と、
“読めない”と思っていた律が、実はちゃんと見ていてくれたこと。
「……みんなで“うまくいこう”としすぎたかもね」
いとは、針箱のふたをそっと閉じながら言った。
「まずは、ちゃんと知ることからだね。ひと針ずつ」
窓の外、春風が一瞬、布の端をふわりと揺らした。
糸がほどけるように、少しずつ、心の距離もほぐれていく気がした。




