第50話「春を縫う手」
部室の棚には、たくさんの“手”の記録が並んでいた。
まどかの作った、小さな赤いポーチ。
いとの刺した、一輪の花の刺繍。
さゆりの、淡くにじむグラデーションのクロスステッチ。
どれも完璧ではない。でも、どれも心を込めた、かけがえのない作品だった。
「なんかさ、ここ……前よりあったかい気がする」
さゆりが言って、いとは頷く。
「うん。針と糸が、ずっとこの部屋を守ってくれてるみたい」
春の光が差す中庭のベンチ。
桜の蕾が膨らみ始め、風がそっとスカートの裾を揺らした。
いととさゆりは、紙コップに注いだ紅茶を両手で包む。
「最初は不安だったけど……」
いとがぽつりとこぼす。
「今は、続けていきたいって思う」
静かに、でもまっすぐな目で空を見上げた。
「うん。わたしたちの手で、この部を紡いでいこうね」
さゆりがそう返したとき、風の中にどこか懐かしい気配が混ざる。
──『自分のやり方でいいの。大丈夫、いとなら』
まどかの声が、心の奥にふっとよみがえる。
その夜。部室の机にひとり座ったいとは、新しい刺繍枠を取り出す。
まだ何も縫われていない真っ白な布。
けれど、そこに込めたいものは、もう決まっていた。
窓の外では、風が春の匂いを運んでいた。
モノローグ:
ひと針ごとに、春が近づく。
これは、わたしの春。
そして、次の誰かへと続いていく春。
わたしの針は、今日も“だれかの春”を縫っていく。
ラスト。
窓辺の光の中、いとの手が静かに動き出す。
白い布に、やさしい音を立てて──
最初の一針が、落とされた。




