第43話「さゆりの春は、まだ遠い」
机の上には、淡いピンクや若草色の刺繍糸が並んでいた。
けれど、それらにはまだ針も通されず、静かに光を反射しているだけだった。
さゆりは頬杖をついたまま、じっとそれらを見下ろしていた。
(……やっぱり、違う)
「私の中の春」――そう聞いて、誰もが思い浮かべるような、明るくて、柔らかくて、きらきらしたもの。
だけど、自分の中にある感情は、それとはほど遠い気がした。
不安定で、まだ冷たくて、晴れたり曇ったりしている空のような気持ち。
それを“春”と呼ぶには、どこか無理がある気がして、さゆりは手が止まっていた。
「……春なんて、きれいすぎる」
思わず、呟いていた。
その日の午後、いとと手芸店へ出かける約束をしていた。
久々の買い出しだったが、さゆりの足取りはどこか重たかった。
色とりどりの糸に囲まれても、心は晴れなかった。
そんな帰り道。薄く雪の残る歩道を歩きながら、さゆりはぽつりと口を開いた。
「春って……来たくないときもあるよね」
いとは歩調を合わせながら、静かに横を向いた。
「……うん。そういうとき、あると思う」
さゆりは少しだけ驚いた。否定されると思っていたのに。
でも、いとは続けた。
「でもね、さゆりの“春”がどんな形でも……わたし、ちゃんと見たい」
その言葉に、さゆりの胸がきゅっとなった。
わたしの春。
それは、咲き誇る桜じゃないかもしれない。
花束でも、新しい出会いでもないかもしれない。
でも――
(もし、それが“雪解け”だとしたら?)
夜、さゆりは作業机に向かった。
薄いグレーから、白、そして水色、淡い桃色へとつながる糸を一本ずつ並べてみる。
寒さが残る景色に、少しずつ光が差し込んでいく。
すべてが一気に変わるわけじゃない。
でも、ゆっくり、確かに、冬が終わっていく。
「……これでいこう」
小さく呟いた声は、自分の中に響いた。
さゆりは、そっと最初の一針を刺した。
それは、まだ冷たい空気の中に滲む、確かな“始まり”だった。




