第42話「わたしだけの春」
布地の上に置かれた刺繍枠。
針は止まったまま、いとは黙ってその中心を見つめていた。
テーマは、「私の中の春」。
だけど、いとの中で“春”は、ぼんやりとした霧のようなイメージでしかなくて。
スケッチブックのページには、何度も描き直された花の形が、重なっていた。
(ピンク……? でも、それだけじゃ弱い。花びらは……丸い? 細長い?)
何も決まらない。何も刺せない。
焦る気持ちを抑えながら、いとはそっと椅子から立ち上がった。
そのまま、部室の本棚へと向かい、無意識のうちに――あのノートを手に取っていた。
《まどかノート》
卒業を間近に控えたまどか先輩が、後輩たちのために残してくれた手芸の記録。
ページをめくるたび、優しくて丁寧な文字が現れる。
そして、ふと目に留まった一文。
>「作品は、自分の“思い出”から咲くこともある」
「……思い出、か」
ぽつりとつぶやいてから、いとはノートを閉じ、鞄にしまった。
その足で、いつもの帰り道の公園に立ち寄る。
夕暮れの冷たい風が頬をかすめる中、ふと視界に小さな赤い花が映った。
「……梅……?」
まだ真冬の名残が残る公園。
それでも、枝の先にはほんの少しだけ、柔らかな花が開いていた。
いとは見上げながら、ふと心が静かに動くのを感じた。
(……あの春も、こうやって始まったのかも)
去年の春。
高校に入って、右も左もわからなかった日々。
刺繍を続けていいのかさえ、迷っていた自分に、さゆりと、まどか先輩が声をかけてくれた。
刺繍の話をした。布に触れた。作品を並べて笑った。
気づけば、あの部室は“自分の場所”になっていた。
(あの出会いが――わたしにとっての“春”だった)
頬がほんのり熱を帯びる。
いとは、鞄からノートを取り出し、すぐに新しいページを開いた。
「……花にしよう。小さくて、咲きはじめたばかりの花」
梅かもしれないし、桜かもしれない。
でも、きっとそれは、わたしだけの“始まり”を咲かせる花。
初めてだった。
ただ綺麗な図案じゃない。練習で縫った形じゃない。
自分の記憶と気持ちを、刺繍にする。
いとは静かに立ち上がる。
もう、針を持つ手が迷っていなかった。




