第32話「刺繍で、ありがとう」
文化祭が終わり、校舎は少しずつ冬の空気に包まれていた。
部活もいつもの日常に戻り、作品制作や雑談に笑い声が混じる、そんな穏やかな時間が続いている。
けれど、いとの心には、どうしても伝えておきたい想いがあった。
だから、彼女は少しだけ遅れて部室に現れ、小さな封筒をふたつ、そっと差し出した。
「これ……作ったの。ふたりに、渡したくて」
白い厚紙に、小さな花の刺繍が添えられた手作りのカード。
中央には、揺れるような手縫いの文字で──「ありがとう」と、たった五文字。
さゆりが一枚を受け取り、目を丸くする。
「これ……いとが刺したの?」
「うん。すこしだけど、気持ちを込めたから」
まどかは黙って封を開け、そっと目を細めた。
──“わたし、ふたりと出会えてよかった”──
添えられた一行を、指先でなぞるように見つめたあと、ふっと笑う。
「……ずるいなあ、こういうの」
まどかの頬が赤らむ。さゆりは軽く咳払いして、刺繍の花を見つめていた。
「すごく、嬉しいよ。ありがとう、いと」
「……わたしこそ、ありがとう」
何気ないやり取りの中に、たしかな気持ちが宿っていた。
放課後、昇降口で上履きを脱ぎながら、いとは二人に小さく手を振る。
「じゃあ、また明日」
「おつかれー」
「風邪ひかないようにねー」
校舎を出ると、夕暮れの空が広がっていた。
赤と橙がゆっくりと混ざり合う空の下を、いとはひとり歩く。
手には、刺繍道具が入ったいつもの手提げ袋。
歩きながら、ふと立ち止まり、空を見上げる。
秋が終わり、冬が訪れる。けれど、心の中にはまだ、文化祭の温度が残っていた。
言葉にするのは、たぶん少し照れくさい。
だけど、針を通してなら、わたしはちゃんと伝えられる。
ありがとう。楽しかった。大好き。
そういう気持ちを、ひと針ずつ。
──「また、新しい季節を刺したいな」
そう思えた今の自分を、いとは少しだけ誇らしく思った。
あのときの文化祭。たぶん一生、忘れない。




