第3話「はじめての針と糸」
旧家庭科室──校舎の隅にあるその部屋は、どこか時間が止まったような静けさに包まれていた。
明るく差し込む午後の陽射しが、古い木の床にやさしい模様を描いている。
ドアをそっと開けた日向いとは、一歩、足を踏み入れた。
「こんにちは……」
するとすぐに、ふわりとした声が返ってきた。
「あ、いとさん!」
振り返ったのは、白石さゆりだった。入学式の日に出会った、あの静かでやさしい笑顔。
彼女も体験入部に来ていたらしい。机の前に座り、手を動かしながら微笑んでいた。
「やっぱり来たんですね。なんとなく、来てくれる気がしてました」
「うん……なんとなく、気になって」
いとは少し照れながら、さゆりの隣の席に座る。
机の上には色とりどりの刺繍糸、布、図案の見本が並んでいた。
*
「いらっしゃい。体験入部、ありがとう」
部室の奥から現れたのは、あの日、文化部ブースにいた先輩──まどかだった。
白いエプロン姿で、両手には柔らかな糸と布を抱えている。
「今日は、刺繍体験をしてもらおうと思って。図案は自由。布の色はこの三つから選んでね」
机の上に並べられたのは、生成り、ミントグリーン、くすみピンクのリネン地。
「わたし、これにする」
さゆりが選んだのは、くすみピンク。すでに下絵を描き始めているらしく、スケッチブックには小さな花の図案が描かれていた。
「じゃあ……私は、これで」
いとは少し迷って、生成りの布を選んだ。自分でもよくわからないけど、いまの気持ちにいちばん近い色だった。
*
「最初は、好きなかたちを線で描いて。鉛筆で軽く、ね」
まどかの指導のもと、いとはおそるおそる布に鉛筆を走らせる。
図案は、シンプルな雫のかたち。……なぜか、刺繍を始める気持ちって、少し涙に似ている気がした。
そのあと、針に糸を通す──が、なかなかうまくいかない。
「……あれ、なんで通らないの? もしかして、針が細すぎる……?」
苦戦するいとの隣で、さゆりはするすると糸を通し、スムーズに縫い進めていた。指先が細かく動き、まるで踊っているみたいだった。
「さゆりさん、上手……」
「小さい頃から、母に教えてもらってたから。でも、まだまだです。……針、貸してみてください」
さゆりがそっと針を受け取り、糸をするりと通して渡してくれる。
「ありがとう……」
いとはもう一度、針を布に刺す。緊張で手が固くなり、糸がつっぱったり、抜けすぎたり。でも、それでも。
──集中していると、不思議と時間がゆっくり流れていく気がした。
誰もしゃべらない静かな時間。けれど、耳の奥では、針が布をくぐる「しゅっ……」というかすかな音が響いていた。
*
気づけば、1時間以上が経っていた。
「……あ、ちょっとずつ形になってきたかも」
自分の布を見下ろしたいとは、小さく息を吐いた。まだガタガタの線、糸の緩みもあるけれど、そこには確かに“自分だけの模様”があった。
「楽しい、かも……」
ぽつりとこぼれた言葉に、まどかが小さくうなずいた。
「うまくできることより、やってる時間が、好きって思えることのほうが大事よ」
その言葉が、いとの胸にそっと落ちていった。
自分がいまここにいて、手を動かしている。それだけで、心が少しずつあたたかくなる気がした。
──まだ、「好き」になりかけの時間。
でもそれは、静かな糸でつながれた、確かな一歩だった。