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糸と針と、わたしたち。  作者: 南蛇井
高校1年生
3/78

第3話「はじめての針と糸」

旧家庭科室──校舎の隅にあるその部屋は、どこか時間が止まったような静けさに包まれていた。

明るく差し込む午後の陽射しが、古い木の床にやさしい模様を描いている。


ドアをそっと開けた日向いとは、一歩、足を踏み入れた。


「こんにちは……」


するとすぐに、ふわりとした声が返ってきた。


「あ、いとさん!」


振り返ったのは、白石さゆりだった。入学式の日に出会った、あの静かでやさしい笑顔。

彼女も体験入部に来ていたらしい。机の前に座り、手を動かしながら微笑んでいた。


「やっぱり来たんですね。なんとなく、来てくれる気がしてました」


「うん……なんとなく、気になって」


いとは少し照れながら、さゆりの隣の席に座る。

机の上には色とりどりの刺繍糸、布、図案の見本が並んでいた。


 


  *


「いらっしゃい。体験入部、ありがとう」


部室の奥から現れたのは、あの日、文化部ブースにいた先輩──まどかだった。

白いエプロン姿で、両手には柔らかな糸と布を抱えている。


「今日は、刺繍体験をしてもらおうと思って。図案は自由。布の色はこの三つから選んでね」


机の上に並べられたのは、生成り、ミントグリーン、くすみピンクのリネン地。


「わたし、これにする」


さゆりが選んだのは、くすみピンク。すでに下絵を描き始めているらしく、スケッチブックには小さな花の図案が描かれていた。


「じゃあ……私は、これで」


いとは少し迷って、生成りの布を選んだ。自分でもよくわからないけど、いまの気持ちにいちばん近い色だった。


 


  *


「最初は、好きなかたちを線で描いて。鉛筆で軽く、ね」


まどかの指導のもと、いとはおそるおそる布に鉛筆を走らせる。

図案は、シンプルな雫のかたち。……なぜか、刺繍を始める気持ちって、少し涙に似ている気がした。


そのあと、針に糸を通す──が、なかなかうまくいかない。


「……あれ、なんで通らないの? もしかして、針が細すぎる……?」


苦戦するいとの隣で、さゆりはするすると糸を通し、スムーズに縫い進めていた。指先が細かく動き、まるで踊っているみたいだった。


「さゆりさん、上手……」


「小さい頃から、母に教えてもらってたから。でも、まだまだです。……針、貸してみてください」


さゆりがそっと針を受け取り、糸をするりと通して渡してくれる。


「ありがとう……」


いとはもう一度、針を布に刺す。緊張で手が固くなり、糸がつっぱったり、抜けすぎたり。でも、それでも。


──集中していると、不思議と時間がゆっくり流れていく気がした。


誰もしゃべらない静かな時間。けれど、耳の奥では、針が布をくぐる「しゅっ……」というかすかな音が響いていた。


 


  *


気づけば、1時間以上が経っていた。


「……あ、ちょっとずつ形になってきたかも」


自分の布を見下ろしたいとは、小さく息を吐いた。まだガタガタの線、糸の緩みもあるけれど、そこには確かに“自分だけの模様”があった。


「楽しい、かも……」


ぽつりとこぼれた言葉に、まどかが小さくうなずいた。


「うまくできることより、やってる時間が、好きって思えることのほうが大事よ」


その言葉が、いとの胸にそっと落ちていった。


自分がいまここにいて、手を動かしている。それだけで、心が少しずつあたたかくなる気がした。


──まだ、「好き」になりかけの時間。


でもそれは、静かな糸でつながれた、確かな一歩だった。



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