第29話「その一言が、背中を押す」
文化祭の喧騒が去ったあとの校舎は、どこか寂しげだった。
でも、手芸部の部室だけは、まだほんのり温かさを残していた。
「……これ、見てみる?」
まどか先輩が手にしていたのは、来場者アンケートの束。
ペラリとめくるたびに現れる、いろんな文字。いろんな想い。
“展示が素敵でした”“色づかいが秋らしくて、見ていて心が落ち着きました”
──そして、そこにあった一枚。
『この作品を見て、刺繍を始めてみたくなりました』
読んだ瞬間、いとの心臓がふっと高鳴った。
「え……」
たった一行の感想なのに、胸の奥の深い場所に、そっと火を灯されたような感覚だった。
誰かの行動を、心を、作品が動かした? わたしの、あの針が?
「いとの“まっすぐ”が、届いたんだと思うよ」
まどか先輩の声は、やわらかくて、あたたかかった。
振り返ると、彼女は穏やかに微笑んでいて、どこかすべてを見通しているような瞳だった。
「わたし……ずっと、“見せるのがこわい”って思ってた。だって、見られるって、評価されるってことでしょう? ヘタだとか、つまんないって思われたらって、怖くて……」
「うん。わたしも最初はそうだったよ。でもね、“伝えたい”って気持ちがちゃんとあるなら、大丈夫」
「伝えたい……」
いとはそっと自分の指先を見た。
文化祭前夜、針を握りしめて、眠い目をこすりながら刺していた秋色の葉っぱたち。
あれは、誰のためでもない、自分の中の「好き」を形にしたものだった。
でも、それがこうして、誰かの心に触れていたなんて。
「文化祭は終わったけど……」
「でも、始まったんだよ。いとの“これから”が」
まどか先輩の言葉に、いとはうなずいた。
まだ上手くはない。技術だってさゆり先輩やまどか先輩には敵わない。
でも、わたしは――伝えたい。
作品を通して、誰かの心に触れることができるなら。
わたしの針で、ほんの少しでも、誰かの背中をそっと押せるなら。
「わたし……もっと、刺したい。もっと、届くものを作りたい」
まどか先輩は目を細めて、少しだけ誇らしげに笑った。
「……うん、きっとできるよ」
文化祭の幕が下りた午後、静かな部室で、いとはひとつの“確信”を胸に刻んだ。
これは、終わりじゃない。わたしの針の旅は、今、ようやく動き出したんだ――。




