第16話「名前を出すということ」
地域文化ホールのガラス扉が開くたびに、涼しい空気とともに人々のざわめきが流れ込んでくる。
さゆりは、展示ブースの前に立っていた。
自分の刺繍が、白い布の中央に飾られている。紫陽花の花が淡いグラデーションで表現されており、その右下には、小さく丁寧に縫われた「Sayuri」のサイン。
──見られてる。
胸が少しだけ痛むほどの緊張。まどかはそっと隣に立ち、「大丈夫、ちゃんと届いてるよ」と声をかけた。
ふと、目の前に立った小さな女の子が、母親の袖を引っ張りながら作品を見つめていた。
「このお花、すごく好き! きれいで、ふわふわしてる!」
その声に、さゆりは反射的に一歩下がりかけたが、目が合った少女がにこりと笑った。
「これ、さゆりさんが作ったの?」
少し戸惑ってから──さゆりは、小さくうなずいて、「ありがとう」と微笑んだ。
声が震えていたけれど、その笑顔はちゃんと、届いた。
展示会が終わり、帰り道。西日が差し込む歩道を、三人は並んで歩いていた。
「やっぱり……見てもらうのも、悪くないね」
さゆりはぽつりと呟いた。少しだけ照れたような声。
いとは、そんな彼女の横顔を見ながら、心の中でそっとつぶやく。
──次は、わたしも出したいな。
名前を出すことは、恥ずかしさでも、覚悟でもなく、
「このひと針は、わたしのものです」と伝える、ささやかな勇気。
風に揺れる木漏れ日の中で、三人の影が静かに並んでいた。




