第120話「誰にも見えなくても、今はまだ」
主役:さゆり(+部室に集まる全員)
舞台:部室(夏休みの終盤)
午後三時。
陽射しが傾き始めたころ、校舎の奥にある手芸部の部室には、静けさが漂っていた。
ミシンの音は鳴っていない。
エアコンもないこの部屋を、扇風機がゆっくりと巡回する。
パタパタという風の音、シャッという刺繍糸の擦れるかすかな音、
そして、誰かが落とした消しゴムが机から転がって床に落ちた音――それだけ。
誰も喋っていない。
でも、不思議と息苦しくはなかった。
さゆりは手元の刺繍枠から目を離し、ちらりと周囲を見渡す。
律は図案と布を交互に見つめながら、細かく糸を動かしていた。
ゆらは、集中しすぎて首がかくんと傾き、慌てて姿勢を直す。
あおばは何かを数えているようで、小さく指を動かしながら目を細めている。
みんな黙っていて、でも、同じ空気の中にいた。
そんなときだった。
ふと、ゆらがぽつりとつぶやく。
「ここって……ちょっと、静かすぎますね」
その言葉に、律が顔を上げて笑う。
「音楽でもかけようか?」
部室にはスピーカーもある。普段は好きなアーティストをかけたりもしていた。
けれど、そのとき、さゆりは小さく首を振った。
「……今の“静かさ”が、好きかも」
風の音がまた、ふわりと巡っていく。
誰もそれに反論しなかった。
ただ、うん、というように、みんなが目を伏せて、手元に戻っていった。
完成には、まだまだ遠い。
誰の作品も、途中で、バラバラで、形になっていない。
だけど、ひとつだけ確かだった。
それぞれが、自分の手で、自分のペースで、何かを重ねている。
誰にも見えない、けれど、ここにある。
この静けさのなかで――積み重なっていく“いま”が、あった。
ラスト行
「誰にも見えなくても、今はまだ……だけど、それでいい」
この静けさを、私はきっと、ずっと忘れない。




