第119話「一針ずつって、こういうこと」
主役:ゆら
舞台:部室・自宅
「……あれ? あれ……?」
小さなため息が、糸と布のあいだからこぼれる。
夏の午前、部室に差し込む陽射しの中で、ゆらはじっと布に向かっていた。
モチーフの花弁が、どうしても歪んでしまう。形を整えようとすればするほど、糸の流れがぎこちなくなり、輪郭が揺れてしまう。
三度目のやり直しで、ゆらはついに針を置いた。
ぽん、と机に広がる小さな音。隣で手を動かしていた律が、その音に気づいてふと視線を上げる。
「ゆらちゃん」
「……ごめんなさい、また失敗しちゃって」
「違うよ」律は首をふる。「前より、“きれいに作ろう”としてるんだね」
「きれいに……」
ゆらの手が、わずかに震えた。
その夜。
自室の机、蛍光灯の下。
ゆらはひとつの箱を引き出しから取り出した。中にはこれまで作ってきた小さな小物たち――歪んだフェルトのマスコット、ほどけかけたブレスレット、刺繍糸が絡まったくるみボタン。
「……全部、下手だなあ……」
思わず苦笑しながらも、ゆらはひとつひとつ手に取っていく。
ボタンを渡したとき、あおばが「かわいい!」と声をあげた顔。
失敗作のマスコットを、律がそっとポーチにつけてくれていた日。
「へたくそだったけど、ちゃんと届いてた……」
上手くなくても、誰かに伝わった気持ちが、確かにあった。
そのことが、じわりと胸の奥に広がっていく。
翌日。
部室に入ってきたゆらは、まっすぐ自分の机に向かい、そっと座る。
糸を手に取る。昨日までのやり直しの跡がある布に、針を刺す。
焦らない。
一針ずつ。
まっすぐじゃなくても、ゆっくりでも。
大丈夫。きっと、大丈夫。
音楽も会話もない静かな部室に、小さく糸の音が響く。
すぐそばで作業していたさゆりがふと手を止め、ゆらの手元を見て、小さく頷いた。
その目は、どこか懐かしいものを見つめるように、やさしかった。
ラスト行:
「一針ずつって、こういうことなんだ――」
失敗を恐れず、伝えたい気持ちを縫い重ねていく。
それが、ゆらの“いま”の刺繍だった。




