第115話「じゃあ、もう一回始めよう」
部室に響くのは、針が布を貫く、かすかな音。
手芸部の集大成に向け、誰もが静かに集中していた。
あおばは、姉のノートの続きを縫っている。
まこは、お菓子モチーフの細密なパッチワークに取り組んでいた。
ゆらは、先輩たちの過去の作品を参考にしながら、試行錯誤を重ねている。
その中で、さゆりだけが、白い布の前でじっと手を止めていた。
(みんな進んでる。……なのに、私は)
針を持つ手が汗ばんで、力が入らない。
心だけが焦って、布に何も描けないまま時間が過ぎる。
「……」
机に肘をついたまま、さゆりは目を伏せる。
そのとき。
「……焦ってる?」
静かな声が耳元に届いた。律だった。
「最初からやり直しても、何も悪くないと思うよ」
彼女は、さゆりの正面には座らず、ただ隣に立っていた。
視線は布ではなく、さゆりの肩のあたりに優しく落ちている。
続けて、ドアのあたりから、もう一人の声。
「さゆり先輩の“最初”、ちょっとだけ見てみたいです」
ゆらだった。手にはノートとスケッチが挟まったバインダーを抱えている。
その顔は真剣で、けれどどこか、楽しみにしているようでもあった。
さゆりは目を伏せたまま、小さく息を吸った。
(……最初)
(一番最初、私はどうして刺繍を始めたんだっけ)
放課後の部室を後にして、3人はゆるやかな坂道を歩いていた。
夕焼けが、地面を黄金色に染めていく。
蝉の声が、どこか遠くで続いていた。
「私、小学生のころね、ポーチを作ろうとして、母に“それじゃファスナー縫えないでしょ”って爆笑されたの」
そんな昔話を笑いながら口にする自分に、さゆりは少し驚いていた。
自然と、話していた。
「私、最初はただ“きれいだな”って思っただけだった。理由なんてなかったのに、いつの間にか、ちゃんとしたものを作らなきゃって……」
「その“きれいだな”って気持ち、今も残ってますか?」と、ゆら。
「……うん、たぶん。ちょっとだけ」
さゆりは、立ち止まる。
ゆっくりと前を見て、目を細めた。
「じゃあ……もう一回、最初から作ってみようかな」
それは決意というよりも、自分への許しだった。
その日の夕暮れ。
部室には、さゆり一人。
テーブルに、真新しい布が広げられている。
針山も、最初に買ったままの小さな丸枠も、全部そろっていた。
さゆりは深く息を吸って、針を手に取る。
そして、小さく、でも確かに声に出した。
「……始めます」
カチリ。
針が布に刺さる、最初の音が、部室に響いた。




