第112話「この針に、名前を刻む」
主役:全員(ゆら中心)
舞台:部室・文化室前・夕暮れの渡り廊下
夏が近づく匂いが、風の中にまぎれはじめていた。
放課後の部室。窓は開け放たれ、ミシンの音と、静かな針の運びと、時折こぼれる笑い声が混ざり合っている。
机の上には、色とりどりの布と糸。
全国コンクールに向けて、それぞれの作品が、少しずつ“形”になりはじめていた。
律は細部に入った装飾を確認しながら、あおばはベルトの刺繍に没頭していた。いとは、着色の調整を終えたばかりのフェルトの小物を手に、少しだけ得意げな顔をしていた。
その真ん中で、ゆらは、手のひらほどの針山を膝に置いて、そっと糸を引いていた。
「……なんか、すごいね」
ゆらがぽつりと漏らした声に、いとが振り向く。
「何が?」
「こうして、みんなで集中してるの。熱気っていうか……本気の空気?」
「ま、これが手芸部の“夏”ってやつでしょ」
いとの声に、律とあおばも小さく笑った。
流れる空気が、いつもより柔らかい。
ふと、ゆらが言った。
「……そういえば、みんな、どうしてこの部に入ったんですか?」
ミシンの音が止まり、空気が静かになる。
少しだけ、過去をたどるように、みんなの目が宙を泳ぐ。
最初に口を開いたのは、あおばだった。
「姉のノートを見たのが、きっかけかな」
あおばは、どこか照れたように笑う。
「中学のとき、押し入れから姉の古いノートが出てきてさ。……びっしり書かれてて。手芸のアイデアとか、糸の種類とか。
読んでるうちに……“この人たち、すごく楽しそう”って思ったんだ」
続いて、いとが答える。
「私は……誰かに“好きって言葉、信じていいんだよ”って言われたからかな」
意外にも真面目な声に、ゆらは目を見開いた。
「最初は、ただの逃げ場だった。でも、涼子先輩とか……ここの空気が、“好き”って気持ちを許してくれたの」
律は少しだけ視線を落として、ぽつりとつぶやいた。
「私は……“作る理由”を聞かれなかったから」
「え?」とゆらが問い返す。
「“どうして作るの?”って、よく聞かれるんだ。でも……ここだけは、理由より、手を動かしてることを大事にしてくれた。
それが、うれしかったんだと思う」
その言葉に、誰かが何かを言いかけて、でもやめた。
夕暮れが差し込んできて、みんなの横顔が淡いオレンジに染まる。
ゆらはそっと、膝の上の針山をひっくり返す。
布の裏、目立たない場所に、小さく小さく刺繍された“Y”の文字があった。
「私……ちょっとだけ、名前を入れてたんです」
皆がそれをのぞきこみ、柔らかく笑う。
「なんで隠したの?」
「なんとなく……でも、誰にも気づかれなくてもいいけど、ちゃんと“ここにいた”って、残しておきたかったから」
静かになった部室。
誰も何も言わないまま、それぞれの手が再び動き出す。
チク、チクと針の音が重なって、淡い夕陽がその手元を照らしていた。
言葉はなくても、気持ちは確かに、同じところにあった。




