第110話「“最後のコンクール”に、名前をつけるなら」
主役:あおば・いと
舞台:部室・校舎裏ベンチ
六月の空気は、どこか柔らかく湿っていて、窓の外に揺れる木々も、まるでこちらの緊張をやさしく和らげようとしてくれているかのようだった。
放課後の部室には、静かなざわめきがあった。
全国コンクール。今年で三度目、そして最後の挑戦。
あおばといとは机を挟んで座り、ノートとスケッチブックを広げていた。
「去年のやつ……“綿密で、完成度の高い作品”って言われたよね」
「うん。でも、あれってたぶん、最初から“うまく作ろう”って意識が強かったと思う」
あおばは指先で紙の端をなぞりながら言った。
そこには刺繍の図案と、まだまとまらない言葉たちが並んでいる。
「今年は……もうちょっと“私たちらしさ”を入れてもいいのかなって、思うんだけど」
沈黙が、数秒。
いとがぽつりとつぶやいた。
「もしさ、最後のコンクール作品に名前をつけるとしたら……どんな名前、つける?」
あおばは目を見開いた。
「名前?」
「うん。物語のタイトルみたいに。ほら、私たち、毎年名前つけずに出してたじゃん。番号だけのエントリーで」
ちょっと面白そう、という表情で、あおばがノートをめくる。
「じゃあ……“寄り道の記録”とか?」
「いいね、それ。……私は“糸のことば”かな」
二人で笑いながら、次々と案が出る。
「“夜の部室から”」
「“名前のない風景”」
「“手のひらの春”」
名前を考えるうちに、気づけば、それぞれの作品に込めた記憶の話をしていた。
初めてのコンクール。夜遅くまで部室で作業したこと。間違って布を逆に縫ったまま提出しそうになったこと。
誰かと作ることの面白さと、ひとりでは届かない何か。
いとはふと、視線を落とした。
「思い出って、名前がないと、ただの風景になっちゃう気がして」
あおばは、軽くうなずく。
「だったら、わたしたちで……名前、つけようか。“わたしたちの部活の記憶”に」
部室を出て、校舎裏のベンチに並んで座ると、日が傾いて少し肌寒い風が吹いた。
あおばはノートを開き、ゆっくりとペンを走らせる。
──名前のない思い出に、針と糸で名前をつける。
そう書かれたページを、いとがのぞき込み、静かに笑った。
二人の“最後の作品”が、ここから始まろうとしていた。




