第11話「名前を縫う勇気」
「さて、そろそろ仕上げね」
放課後の部室。
まどかがそう言って、展示台帳のリストを見ながら針を動かしている。
机の上には、それぞれの“紫陽花”が咲いていた。
いとの作品は、透けるような青と紫のグラデーションで、雨の中に揺れる紫陽花の姿を表現していた。
淡い色で、輪郭もにじむようなステッチ。手に取って見ると、その揺らぎが伝わってくるようだった。
「仕上げって……何をするんですか?」
いとが尋ねると、まどかはにっこりと答えた。
「ここに、自分のサインを入れるの。刺繍で」
指さしたのは、布の右下の空きスペース。
「本名でもイニシャルでもいいよ。入れたくなければ、無理にとは言わないけど……」
「え……名前、ですか……?」
いとは、その言葉に一瞬固まった。
──自分の名前を、作品に縫う?
それってなんだか、すごく照れくさい。
しかも、こんな下手な刺繍に名前を入れるなんて、逆に恥ずかしい気がした。
「さゆりちゃんは、どうするの?」
「私はいつも“さ”って平仮名一文字で入れてるよ。なんとなく気に入ってて」
さゆりはすでに、自分の刺繍の隅に、小さな“さ”の文字を縫い終えていた。
まどかの作品には、細く繊細な文字で“Madoka”と入っている。
二人が自然にサインを入れているのを見て、いとは黙り込んだ。
「……なんか、私だけ下手なのに名前入れるの、変じゃないですか」
その言葉に、まどかは針を置いて、静かに微笑んだ。
「いとちゃん、それは“うまさ”の問題じゃないよ」
「え……?」
「サインを入れるのは、“この作品に責任を持ちます”っていう気持ちなの。
誰かに見てもらうこと、認めてもらうこと。……そして、自分で“これが私の作品です”って言ってあげること」
静かに、優しく、けれど芯のある言葉だった。
いとはしばらく考えこんで、それから、糸を一本、選んだ。
ほんの少しだけ濃い紫の細糸。
自分の紫陽花の空気を壊さないように。
そして、右下の隅に、そっと刺す。
“ito”
その三文字は、少しだけ震えていたけれど、ちゃんと読めた。
──これは、私の雨。私の紫陽花。私の一針。
それを、名乗る勇気。
小さなサインは、確かにそこに縫いとめられた。




