第104話「“はじまり”の下で、また一針」ラノベ化
主役:いと・あおば・新入生たち
舞台:部室・中庭の桜の下
春の陽射しがやわらかく差し込む午後、手芸部の部室には、ほんの少しだけ新しい空気が流れていた。机の端に並べられた糸巻きと、新しい刺繍針。それを見つめるのは、入部を決めたばかりの新入生──日下部ゆらと双葉まこ。
ゆらは静かに椅子に座っている。まこはというと、部室の壁にかかる先輩たちの作品をきらきらした目で見上げていた。
「じゃあ、改めて──」
いとが笑顔で二人に向き合った。彼女の手には、小さな桜模様のノートと、きちんと巻かれた刺繍糸、それに細身の針。
「これが、今年の“はじまりセット”です」
「はじまりセット?」と、まこが首をかしげる。
「そう。春の入部生に渡す最初の道具。最初の針、最初の糸、最初のノート。ぜんぶ、“はじめて”にぴったりのもの」
ゆらはノートを開くと、白く清らかなページをじっと見つめた。
「ねぇ、今年もあそこでやらない?」
あおばが言って、いとはうなずいた。
「うん、あの桜の下で。去年、わたしたちも、ここからだったから」
—
中庭の桜は満開だった。花びらが風に乗って舞い、春を一面に染め上げていた。芝生の上に敷いたクロスの上に、道具とノートが丁寧に並べられる。
「最初の作品は、“お守り”にしようか」
いとが言った。
「自分のために、自分の手で作る。刺し方が不揃いでも、色が迷っても、それでいいの。自分の気持ちを、そのまま込めていいんだよ」
まこは頷きながら、緑色の糸を手に取った。ゆらはしばらく迷った末、淡い水色を選んだ。
あおばがふと空を見上げて、ぽつりとつぶやいた。
「去年の春、わたしたちも──ここからだったんだね」
その言葉に、いとも律も、同じように桜を見た。あのときの緊張、希望、すこしの不安。すべてが思い出の中にふわりと浮かび上がる。
ゆらはノートの一ページ目を開く。震える指先で、慎重に糸を針に通す。息を吸って、吐いて──。
「──はじめます」
その声とともに、一針目が、布に静かに刺された。
桜の花びらが、その手元にふわりと舞い落ちる。
「ようこそ、手芸部へ」
いとが、やさしく、でもはっきりと言った。
春は、何度でも始まる。
“はじまり”は、いつだって布の上にある。
そしてまた、今日という春に、新しい物語が一針目を迎えていた。




