第10話「紫陽花の刺繍」
雨は、静かに降っていた。
いとは下校途中、駅までの道で足を止めた。
傘のふちから滴る水越しに見えたのは、校門わきに咲いた一房の紫陽花だった。
青とも紫ともつかない、曖昧な色。
水に濡れてにじんだような花びらが、雨粒をひとつ、またひとつと受け止めていた。
「……きれい」
誰にも聞かれない小さな声でつぶやいて、いとはもう一度、その色を目に焼きつけた。
──その夜。
机の上に、布と糸と、鉛筆と消しゴム。
雨音がまだ残るような夜の空気の中で、いとは図案を描いていた。
頭の中にあるのは、あの紫陽花。
「水ににじむ紫陽花……って、どうやったら伝わるんだろう」
スケッチを描きながら、輪郭をわざと曖昧にぼかしてみたり、点のように刺すステッチを試してみたり。
紫でもない、青でもない、グレーでもない。そんな中間色を、糸箱からいくつも引っ張り出しては比べる。
「ちょっと地味かな……でも、これがあの色に近い気がする」
自分の好きな“色”を選ぶことに、まだ少しだけ勇気がいる。
けれど、今日はそれを手に取ってみた。
何度もやり直して、解いて、縫って、また解いて。
小さな布の中で、時間がゆっくりと過ぎていく。
「うまく伝わらなくても……これが、わたしの雨だから」
つぶやいたその言葉に、いとはふっと気づいて、微笑んだ。
手芸はきっと、うまく“見せる”ことがすべてじゃない。
誰かに届けようとすること、自分の中の景色を、ちゃんと外に出してみようとすること。
それが、刺繍の“はじめの一針”なのかもしれない。
窓の外では、雨がやんでいた。




