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 当初、英語の勉強は一日おきにしようと考えていた。康孝さんも一度に無理はしないほうがいいと言ってくれていたし、僕も急いだところでどうにもならないとわかっている。


(わかっているけど、やっぱり早くどうにかしたい)


 結婚式の日取りについて、少しだけ康孝さんと話をした。焦る必要はないと考えているものの、康孝さんも僕も待ち遠しい気持ちでいることに変わりはない。それにいまも僕の我が儘で式を延ばし続けているようなものだ。「気にしなくていいよ」と言ってくれる康孝さんに感謝しつつ、早くその日が迎えられるように僕も努力したい。

 急く気持ちと前進したいという思いから、家庭教師の日を毎日に変えてもらうことにした。予定とは違ってしまったことで先生には迷惑をかけることになったけれど、多少無理をしてでも早く英語を身に着けたいと決意する。


「急に毎日にしてほしいだなんて言ってしまって、申し訳ありません」

「かまいませんよ。それに珠希さんとお話しするのは楽しいですから」

「ありがとうございます」


 優しい先生の笑顔に恐縮しつつ、気持ちは焦るばかりだ。そんな僕の様子に気づいたのか、先生が「わかりますよ」と言ってにこりと笑った。


「早く康孝様と結婚式を挙げたいと思っていらっしゃるのでしょう?」

「え!? あ、ええと、その……はい」


 言い当てられて顔が熱くなる。そんなことを考えるなんて、みっともないΩだと思われなかっただろうか。恥ずかしく思いながらも無理を引き受けてくれた先生に嘘はつきたくない。そう思って小さく頷き返した。


「ふふっ、珠希さんは可愛いですね」

「か、可愛いだなんて、そんなこと……」

「それに健気でいらっしゃる。伴侶となる康孝様のことを考えて、こうしてしっかり語学を学ばれようとしていらっしゃいます。それが早く正式な伴侶になりたいという思いからだなんて、わたしが康孝様だったらどれほど感激するでしょう。きっと康孝様も身悶えていらっしゃると思いますよ?」

「み、身悶えるなんて、そんなことはないと思いますけど……」

「いいえ、断言できます。公彦兄様と同じようにわたしも昔から康孝様をよく存じ上げていますけれど、康孝様は愛くるしい珠希さんにいつも身悶えているはずです」


 先生の顔が急に真面目なものに変わった。人差し指を立て、「わたしの言葉に間違いはありません」ともう一度口にする。それが巷で人気の探偵小説に出てくる一節のように聞こえて、思わず笑ってしまった。慌てて「す、すみません」と謝ると、「肩から力が抜けたようでよかった」と先生が微笑む。


「力んでいては何事も楽しめませんからね。語学は楽しみながら覚えるのが一番の早道です」

「はい」

「不動家は外国の方々とのお付き合いも多い。なかでも英国貴族が多いと聞いています。だから英語を早く習得したいと考えているのでしょう?」

「……はい」

「大丈夫、挨拶や簡単な言葉はすぐに覚えられますよ。それに珠希さんの隣には康孝様がつねに寄り添っていらっしゃるでしょうから、相手がどんな貴族でもドンと構えていればよいのです」


 自信たっぷりに微笑む先生の姿に、思わず「すごいな」と感嘆のため息が漏れた。先生は僕と同じ十九歳で、しかもΩだ。でも、考え方や話し方は僕とまったく違う。自分の考えをしっかり口にできることも自信に満ちた声も、正直羨ましくて仕方がない。


「珠希さんはそのままで十分素敵ですよ」


 もしかして僕の考えていることがわかるのだろうか。励ますような言葉に眉尻を下げながら、「そんなことはありません」と否定することしかできない自分が嫌になる。


「ご自分を卑下する必要はありません」

「でも……」

「奥ゆかしさは自分を過大評価していないということですし、周囲の言葉に簡単に流されないのは芯が強いとも言えます。度が過ぎれば害もありますが、ご自分を正しく評価でき、それを変えるために努力を惜しまないのは誰もができることではありません。珠希さんはそれを成そうとしていらっしゃる。そういうΩはこの国では少ないのが現状です」

「先生……?」


 言葉尻に強いものを感じて先生を見た。きらりと光った瞳は、すぐにふわりと優しい笑顔に変わる。


「康孝様が鼻の下をぐんと伸ばすようなお相手はどんな方かと思っていましたが、たしかに鼻の下がぐーんと伸びてしまうような方ですね」

「は、鼻の下……」

「はい。今回のお話をいただいたとき、康孝様の鼻の下は、それはもうぐーんと伸びていらっしゃいました。それに、珠希さんがどれだけ可愛いか熱心に語ってもいらっしゃったのですよ?」

「そ、それは……ちょっと、恥ずかしいです」

「ふふっ、そうやって照れる珠希さんもとても可愛らしい」


 そう言って微笑む先生のほうがよほど可愛いと思う。同い年とは思えない言動や自信に満ちた笑顔はキラキラと眩しく、きっと大勢の人たちの視線を集めるに違いない。思わず見惚れていると、「それに」と言いながら先生が顔を寄せてきた。


「自分のために変わろうとしている伴侶に興奮しない男はいません」

「え?」

「そのうち珠希さんの変貌に康孝さんも気が気でなくなるでしょう。きっと片時も離さなくなると思いますよ?」


 先生の愛らしい笑顔に艶やかなものが混じった。こうした会話は貴族が集まるパーティでは普通のことだというのに、いまだに慣れない僕はつい顔を熱くしてしまう。


(同い年なのに、こうした会話にも慣れているように見えるのは外国の影響もあるんだろうか)


 先生は十九歳という年齢ですでに十回ほど外国に行ったことがあるらしい。そうした経験が自信と眩しさに繋がっているように思えた。


「ふふ、頬を染める珠希さんも可愛いですね」

「そ、そんなこと……それに、こうした会話でうまく立ち回ることもできななんてと情けなく思っています。パーティでも満足に受け答えできないくらいで……」

「αに媚びろと言われたパーティで、うまく立ち回れるはずがありません。これまでのことは忘れたほうがいいですよ」


 それまでとは違う厳しい声色にドキッとした。表情も心なしか険しさが滲んでいるように見える。


「Ωはαの道具ではありません。Ωよりαが優れているという考え方は古い。外国では二十年以上前にそうした考えは愚かだとされました。それなのに我が国ではいまだにαが優位だと考える人たちが大勢います。帝室の方々でさえ考えを変えていらっしゃるというのに、華族の中にはαこそすべてだという伝統的な考え方を変えようとしない人がいるのは嘆かわしいことです」


 辛辣ともいえる先生の言葉に、ふと鳴宮の家のことを思い出した。僕以外全員がαだからか、あそこにはαがすべてだという考え方しか存在していない。兄たちの婚約者は二人ともαで、そのせいで余計にそう感じることが多かったのかもしれない。

 Ωとして生まれた僕は、鳴宮を本物の華族にするための道具としか見られていなかった。僕の価値は、由緒正しい家柄のαに見初められて初めて認められる。ただ生きているだけの僕にはなんの価値もない。そのことをパーティに行けと父から命じられるたびに痛感した。


(パーティになんて行きたくなかった。行くたびに虚しくて苦しかった。……でも、パーティに行けと命じられたからこそ康孝さんと出会うこともできた)


 そう思えるようになったのは康孝さんのおかげだ。康孝さんのそばにいると、卑屈だった気持ちが少しずつ解けていくような気がする。


「もしかしていま、康孝様のことを考えていらっしゃいますか?」

「え? あ、ええと……」

「ふふっ、お顔がふわりと花開いたので、そうではないかと思ったのです。康孝様を想っていらっしゃる珠希さんはとても美しい。これまで帝室の方々や外国の王族の方々と接する機会がありましたが、珠希さんはそうしたやんごとなきΩの方にも引けを取りません。自分は道具でしかないのだという植えつけられた考えは捨てて、康孝様とのこれからを思い描いてください」

「……はい」

「珠希さんも外国に行けば、きっといろいろな見方が変わりますよ」

「外国……想像もできません。それに、僕が外国に行くなんてことはないかと……」

「ないとは言い切れないでしょう? 康孝様のお付き合いを考えると一緒に渡航される可能性もあると思います」


 康孝さんは友人に招かれて英国に行ったことがあると話していた。たとえば英国貴族に招待された場合、伴侶を伴うこともあるという言葉を思い出した。


「た、たしかにそうですね」

「ふふっ。康孝様との未来はこれからです。もちろんつらいこともあるでしょうが、それより楽しいことや嬉しいことのほうが多いはずです。Ωは愛するαと一緒にいられることがなによりも幸福なのですから」


 そう言って微笑む先生から(つや)めかしいものを感じた。Ωの僕でさえドキッとしてしまうほどの雰囲気に「もしかして」と思い、一瞬ためらったものの尋ねることにした。


「あの、違っていたら申し訳ありません」

「なんでしょう?」

「先生にも、その、大切な方がいらっしゃるのでは……?」


 目をパチパチと瞬かせた先生が、すぐに花が咲いたような笑みを浮かべた。あまりの可憐さに一瞬にして目を奪われる。


「はい。英国の爵位を持つ、わたしにとって唯一の方です」

「もしかして、結婚を……?」

「わたしが二十歳を迎えたら式を挙げることになっています。といっても十六のときに婚約しましたから、気持ちはすっかり伴侶のようなものですけれど」


 十六歳で外国人と婚約するなんて僕には想像すらできない。自分が十六のときは、これからやって来るであろうパーティ漬けの日々を想像して気鬱な日々ばかり送っていた。あのときせめて語学やダンスなどを習っていればと後悔してもしきれない。


「珠希さん、物事には時機というものがあります。わたしは十六であの方に出会ったときがそうでした。そして珠希さんはいまがそのときではないでしょうか」

「そうだといいんですけど……」

「そうに違いありません。珠希さんは人としてもΩとしても、これから目映いほど花開いていきます。康孝様とともに」


 不意に康孝さんの隣に立つ自分を思い浮かべた。これまで想像することすら難しかったけれど、これからの僕なら下を向くことなく康孝さんの隣に立てるかもしれない。そのためにもしっかりと語学を身に着けたい。苦手なダンスは康孝さん自ら先生になってくれている。「経験していけばパーティも楽しめるようになるよ」と微笑む康孝さんを思い出し、頬が少しだけ熱くなった。


「ふふっ、珠希さんは本当に可愛くていらっしゃる。康孝様が鼻の下をぐーんと伸ばされているのもわかる気がします」

「あの、可愛いというのはやはりちょっと……」


 聞き慣れない言葉だからか、何度耳にしても気恥ずかしい。


「そうやって照れていらっしゃる顔も愛らしいですね」


 僕よりずっと愛らしい先生の言葉に、ますます顔が熱くなった。同時に康孝さんに会いたくてたまらない気持ちになり、胸がきゅうっと切なくなった。

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