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 僕が不動家の離れに住み始めて七日が経った。はじめは緊張していたここでの暮らしにも少しずつ慣れてきたように感じる。


「珠希くん、ただいま」

「おかえりなさい」


 なにより、こうして康孝さんを出迎えられることが嬉しくて仕方がない。


(結婚式はまだ先なのに、もうすっかり式を挙げた後みたいだ)


 結婚式の日取りはまだ決まっていない。本当は早く決めたほうがいいんだろうけれど、その前にやっておきたいことがいろいろあって決めきれずにいた。


(行儀作法は鳴宮の家でそれなりに学んでいたけど、語学はやっていなかったからな)


 兄二人は英語とフランス語を習っていた。でも、Ωの僕には必要ないといって学ぶ機会が与えられることはなかった。いままではそれで問題なかったけれど、僕は不動康孝さんの伴侶になる。不動家は外国人との付き合いも多く、康孝さん自身語学が堪能だと聞いた。ピアノの演奏もそうした付き合いの中で始めたらしい。

 そんな康孝さんの隣に立つ僕が外国語をまったく話せないのは論外だ。せめて挨拶や簡単な会話くらいはできるようになりたい。そう思い、康孝さんにお願いして英語の家庭教師をつけてもらうことにした。


(きっと結婚式にも外国の人たちが来るだろうし)


 そのとき挨拶一つできない伴侶だなんて、康孝さんに恥をかかせてしまうことになる。


(今日が初めての授業だったけど、優しそうな先生でよかった)


 緊張していた僕の前に現れたのは愛らしく小柄な男性だった。見た瞬間にΩだとわかり驚いた。まさか先生ができるほど英語が堪能なΩがいるとは思わなかったからだ。しかも僕より一つ年下なのだという。先生は公彦さんの知り合いだとかで、これまで何度も外国に行ったことがあるのだと教えてくれた。


(鳴宮の家ではΩが外国に行くなんて想像したことすらなかった)


 僕は英語を学ぶよりも、外国がどういうところか知りたくて質問ばかりしていた。そんな僕に先生は「勉強熱心ですね」と言って、いろんな話を聞かせてくれた。話をしながら「こういうときはこう返事をするといいですよ」だとか「こういうことを言う相手には“No!”だけで十分です」だとか、外国人とのやり取りについてもしっかり教えてくれるのだからすごい先生だ。

 テーブルには教科書代わりにもらった英語の児童書が置いたままになっている。つるりとした表紙を撫でながら今日聞いた話をあれこれ思い出した。

 外国ではΩも自立して働くことができるらしい。それどころかΩの教師や役人までいるのだそうだ。そんな国があるなんて驚いた。そうした国のΩは僕たちとどのくらい違うのか興味がわく。


「英語の授業は楽しかったかい?」

「え? あ、はい。といっても、今日は外国の話ばかり質問してしまって、あまり勉強にはならなかったんですけど……」


 せっかく呼んでもらった先生に悪いことをしたと申し訳なくなる。すると「何事も楽しむのが一番だよ」と康孝さんが微笑んだ。


「それに外国自体に興味を持つのはいいことだ。相手に興味がなければ学んでも楽しいとは思えないからね。語学は言葉を覚えるだけの勉強じゃない。その国のことを知る素敵な機会だとわたしは思っている。その言葉がどんな意味を持つのか、なぜそんな言い回しになるのか、言葉を通じて外国の文化を知ることができる。言葉を知ればますますその国に興味がわいてくる」


 康孝さんの言葉にパチパチと目を瞬かせた。語学を学ぶときにそんなことを考える人がいるなんて思いもしなかった。兄たちはいつも言葉が通じれば役に立つとばかり口にし、父も商談には語学が大事だと話していた。鳴宮の屋敷にやって来る家庭教師は誰もが厳しい表情で、楽しみながら学ぶという発想はなかった気がする。


「珠希くん?」


 驚く僕に康孝さんが首を傾げた。慌てて「素敵な勉強方法だと思います」と答えると、「ありがとう」と微笑む顔に頬が熱くなる。すっかり見慣れたと思っていたのに、僕は毎日こうして康孝さんの顔に見惚れてしまっていた。


「でも、珠希くんもしているじゃないか」

「え?」

「きみは図らずも今日そうした学び方をした。珠希くんなら語学以外も、きっと多くのことを熱心に学べるんじゃないかな」

「そんなことは……それに、僕はΩだから」

「Ωだから最低限のことしか学ばせないというのは間違いだと思っている。それにきみ自身が学びたがっている、違うかい?」

「……許されるなら、語学以外も学んでみたいです。あの、鳴宮の家では少しだけピアノを習っていました。といっても、康孝さんがピアノを弾くと聞いてからですけど……」

「そうだったのか。それじゃあピアノはわたしが教えよう。そうだ、芸術に興味があるなら美術館に行ってみようか」

「美術館ですか?」

「上野の帝都美術館には帝展に出品された絵画やそのほかの作品がたくさん揃っている。珠希くんとなら多くの学びがあって楽しそうだ」

「そんな、学びだなんて……でも、行ってみたいです。ただ、そうしたところに行ったことがないので緊張します」


 僕の言葉に康孝さんがふわりと笑った。


「大丈夫だよ、わたしがエスコートしてあげよう。そもそもΩだからといって屋敷に閉じ込めるのはもはや古い考え方だ。帝室の方々でさえ公務をこなされている。珠希くんはもっと外に出たほうがいい。あぁ、そのときはわたしを隣に置いてもらえるとありがたいんだけど、どうかな」

「ありがたいだなんて、僕のほうこそ康孝さんの隣にいさせてもらうだけでじゅうぶ、」


「十分です」と言い終わる前に言葉が途切れた。唇に康孝さんの人差し指が触れ、「そんなに卑下してはいけない」と真面目な顔で諭される。


「珠希くんはわたしにとってかけがえのない大事な存在だ。珠希くん自身もそのことを忘れないでほしい」


 唇に指が触れたままでは答えることができない。返事をする代わりに小さく頷くと、唇と指の腹が擦れてうなじがぞくっと痺れた。夕食もまだだというのに体の芯に熱が生まれる。


(……康孝さんに、もっと触れてほしい)


 思わず唇を指に押しつけるように頭を動かしてしまい、ハッとした。


「あ、あの、すみません」


 慌てて顎を引いた。こんなことをするなんて、僕はなんていやらしくなったのだろう。康孝さんに呆れられていないだろうか。心配になり、そうっと表情を窺うと、熱をはらんだ眼差しで見られていることに気づきドキッとした。

 いつもは優しく穏やかな瞳なのに、たまにこうした視線で僕を見ることがある。はじめは強い眼差しが少しだけ怖かった。まるで僕を捕まえようとしている雰囲気に手足が強張るような気がしたこともある。でも、いまはそうじゃない。がんじがらめにするような視線に心地よささえ感じていた。こんなにも僕を求めてくれているのだと思えて体の芯がゾクゾクする。


「珠希くん」

「は、はい」


 康孝さんの声が熱っぽい。どうしよう、声を聞いただけでお腹の奥がジリジリと熱くなってきた。


「お腹が空いただろう? そろそろ食事の用意ができているだろうから、行こうか」

「……はい」


 食堂からかすかにいい匂いが漂っている。せっかくの食事だから熱いうちに食べたほうがおいしい。それに康孝さんは仕事から帰ってきたばかりだ。きっと僕よりお腹を空かせているはず。


(だから早く食堂に行かなくては……)


 わかっているのに、なぜか康孝さんの言葉をほんの少し残念に思ってしまった。


「珠希くん」

「はい、っ」


 顔を上げると、すぐ目の前に美しい顔があって驚いた。息を呑むと、クスッと笑った康孝さんが上半身を屈めて僕の耳に唇を寄せる。


「食事をしたら外国の話を少ししようか。それから湯を浴びて、今夜は少しだけ早くベッドに行こう」


 それが何を意味するのかわからない僕じゃない。ついこの間まで何も知らなかった僕だけれど、康孝さんの艶めく声だけで期待に体の芯がふるりと震えた。

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