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「え……?」

「想像以上にかわいくて加減を間違えそうだ」

「かわ、いいって、」

「珠希くんのことだよ。あまりにかわいくて噛んでしまいそうになる」

「そ、なの、……んっ」


 驚く僕に微笑みかけた康孝さんは、顔を近づけると耳たぶのすぐ近くにチュッと吸いついた。続けて硬いものが触れて鼓動が跳ねる。これは康孝さんの歯だ。もしかして噛もうとしているのだろうか。


「待っ……!」


 待ってと言う前に優しく噛まれて「あぁっ」と悲鳴のような声を上げてしまった。

 生まれて初めて肌を噛まれた。うなじではないけれど、怖くなるくらいゾクゾクしたものが背筋を駆け上がる。気がつけば康孝さんの腕に思い切り爪を立てていた。


「や、やめ、かまな、で……っ」

「わたしに噛まれたくない? 本当に?」

「……っ」


 耳に吐息がかかる。それだけで肌が粟立った。どうしようもない感覚に肩を振るわせていると、耳たぶを柔らかく食まれて手から力が抜けた。背中を甘い痺れが貫き、崩れるように背もたれにくたりと寄り掛かった。


「こうして肌に触れて、口づけて、それでも足りないくらいわたしは珠希くんを想っているんだ」

「でも……僕は……」

「珠希くんはとてもかわいい。わたしにはもったいないくらいにね。だからこそ触れられなくて、それでも触れたくて仕方がなかった」

「ぁ……!」


 首飾りから覗く首筋を甘噛みされて全身がブルッと震えた。仰け反るように背もたれに頭を載せながら、迫り来る康孝さんの胸を力なく押し返す。そうしながらも僕の体は歓喜にあふれていた。大好きな康孝さんに求められているのだと思うだけで息苦しくなるほど体が熱くなる。


「珠希くんがここまで感じやすいとは思わなかった。いや、これも香りの相性がいいからだろうね」

「あい、しょう、」

「発情していなくても、珠希くんがわたしの香りに興奮してくれているということだよ。もちろんわたしも興奮している」


 康孝さんの声が熱っぽい。こんな声を聞いたのも初めてだ。僕を心の底から求めてくれているような声と気配に胸が熱くなった。そんな僕の首に鼻を埋めた康孝さんが「あぁ、とてもいい香りだ」と囁いた。


「きみの香りは優しいのに癖になる」

「……僕は、香りが弱いΩだと言われて、」

「きっと好きな香りに巡り会っていなかったからだろう。でも、これからは違う」

「ちが、う……?」

「そうだよ。これからは珠希くんのそばにはわたしがいる。つねにわたしの香りが珠希くんを包み込む」


 康孝さんの香りが僕を包み込んでくれる……想像しながら康孝さんの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。体の中いっぱいに香りが広がり、滲んでいた景色が光り輝く。初めて感じる多幸感にポロポロと涙がこぼれた。

 僕は康孝さんが好きだ。康孝さんの美しい顔も体も優しいところも、それに甘くてすっきりしたαの香りも大好きだ。そう思ったら体の奥から「大好き」という気持ちがどんどんあふれ出した。抑えきれない気持ちのまま両手を康孝さんの首に回し、逞しい体をぎゅうっと抱きしめる。


「わたしは珠希くんが大好きだ。恥ずかしがり屋で控えめで、それでいてとびきりかわいい珠希くんが大好きだよ」

「僕も、康孝さんが、大好きです」


 僕の告白に、康孝さんが「嬉しくて息が止まりそうだ」と囁いた。

 その夜、僕は体の隅々まで康孝さんに愛された。肌をくまなく撫でられ、いくつもの口づけの跡を残された。初めては痛いと聞いていたけれど、痛みを感じることは一度もなかった。それどころか奥の奥まで気持ちがよくて気が触れるかと思ったくらいだ。僕は最初から最後まで康孝さんの香りと想いに包まれ、このまま死んでもいいと思うほど満たされた。


 目が覚めたのは翌日になってからだった。カーテンの隙間から明かりが漏れている。淡い光ということは、まだ早い時間なのだろう。


(昨日、僕は康孝さんと……)


 ゆっくりと隣に顔を向けた。そこには寝顔さえ美しい康孝さんの顔があった。神々しささえ感じる寝顔に「ほぅ」とため息が漏れる。同時に昨夜のことを思い出して気恥ずかしくなった。


(……ああいうとき、康孝さんはあんな顔をするんだ)


 いつもより少しだけ意地悪で、これまで以上に優しい顔をしていた。どの顔も美しくて思い出すだけで鼓動が速くなる。

 もう一度寝顔を見た。本当にそこに存在するのか確かめたくて、布団からゆっくりと右手を出す。そうして康孝さんに伸ばしかけた自分の手に小さな鬱血痕があることに気づいて手を止めた。


(こんなところまで……)


 手首の少し下に赤い痕がある。どれだけ想っているか教えたいと言いながら肌を吸う康孝さんを思い出し、ますます体が熱くなった。首飾りの上から首筋やうなじを噛まれたことを思い出すとお腹の奥がきゅうっと切なくなる。


「……あぁ、とてもいい香りがする」


 康孝さんの声にハッとした。視線を向けるとまだ少し眠そうな目が僕を見ている。康孝さんの視線が不自然に持ち上がっている僕の右手に向いた。「フッ」と小さく笑った康孝さんがその手を掴む。たったそれだけで鼓動が忙しなくなる僕をちろっと見た康孝さんが手首の内側にチュッと口づけた。途端に甘くすっきりした康孝さんの香りを感じ、体がじわりと熱くなる。


「おはよう、珠希くん」

「……おは、ぁ、」


 声が掠れてうまく出てこない。変だなと思っていると、「わたしのせいだね」と苦笑しながら康孝さんが僕の頬を優しく撫でてくれた。


「努力はしたんだけど、やはり少し無茶をさせてしまったようだ。喉は大丈夫かい?」


 やっぱりうまく声が出せない僕は、小さくコクンと頷くことで返事をする。


「朝食は部屋に運んでもらおう。喉にいい飲み物も頼もうか。その前にシャワーを……」


 康孝さんの言葉が止まった。どうしたのだろう。忙しない鼓動を感じながらじっと見つめていると、視線を外した康孝さんが「あー」と言いながら何か考えるような表情を浮かべた。


「もう少し寝ていようか」


 しまった、僕が起こしてしまったせいだ。外はまだほんのり明るいだけで随分早い時間に違いない。申し訳なくて眉尻を下げていると、「珠希くんも疲れているだろう?」と言われて首を振った。

 本当は体がだるい。でも疲れているというのは少し違う。こんなに気持ちが満たされた目覚めは初めてで、こういうのを心地よい疲労感というに違いないと思った。


「それはよかった。でもね、わたしはまだこうしていたんだ」


 そう言った康孝さんに抱き寄せられた。不意に素肌が触れて怖いほど鼓動が速くなる。


「それにね、ようやく珠希くんと朝を迎えることができて少し興奮もしている。まるで恋を覚えたての学生に戻ったような気分だよ」


「情けないな」と笑う声に、僕は胸が高鳴るのを感じていた。

 この日、康孝さんと僕は昼過ぎまでホテルで過ごし、康孝さんの車で鳴宮の屋敷まで帰った。無断外泊した僕を父は無表情で迎え、その顔を見た途端に体が強張る。それでもなんとか平静でいられたのは隣に康孝さんがいたからだ。僕と父の様子を見た康孝さんは「お話があります」と言って父に声をかけた。「また後で」と言われ、気になったものの自室で待つことにした。

 そわそわしながらドアを見ていると、トントンとドアを叩く音がした。急いで開けた僕に、康孝さんがいつもどおりの優しい微笑みを向けてくれる。


「待たせたかな」

「いいえ。それより、父とは何を……」

「結婚の日取りを少しね」

「日取り……?」

「それから、珠希くんとすぐに新居に住みたいという話もしたよ」

「え?」

「結婚前だけどお父上には納得していただいた」


 驚く僕に、康孝さんが「前々から考えていたんだけど、ようやく話ができた」と微笑んだ。


「新居というのは……」

「わたしと珠希くんとの家だよ。といってもしばらくは不動家の離れに住むことになるけど、ここにいるよりはいいだろうと思ってね」

「え……?」

「そもそも婚約者がいるのに、きみを一人でパーティに行かせるのはどうかと思っていたんだ。何度か申し入れをしたのに聞き入れてもらえなくてね。今回も話だけと思っていたんだけど、わたしのほうが我慢できなくて啖呵を切ってしまった」


 康孝さんは、僕が一人でパーティに出席することに前々から苦情を申し入れていたのだそうだ。本当は康孝さんが同伴すればよかったのだろうけれど、公彦さんたちのことがあってそれも難しい。「わたしは情けないね」と自嘲する康孝さんの手をギュッと握り締めた。

 僕がパーティに顔を出せば必ず噂になる。噂話を耳にするたびに康孝さんは苦情を入れた。けれど、最後まで父はその苦情を受け入れなかったということだ。パーティに同伴せず、口だけ出す康孝さんを父がどう思っていたかはわからない。けれど、康孝さんの申し入れを無視して僕を送り出していたということはわかった。


(きっと結婚を延期する僕への罰だったんだろう)


 あの父ならそのくらいのことはしかねない。αの言うことが絶対だと考える父にとって、素直でないΩの僕は許しがたい存在だったはずだ。


「結婚式の日取りは二人で決めよう。早くてもいいし、のんびりでもいいよ」

「……のんびりなんて言ったら、本当にそうしてしまいますよ」

「うーん、あまりのんびりだと、また我慢できなくなりそうだな」

「……我慢なんて、しないでくだ……」


 最後まで言葉にすることはできなかった。もう父の命令を聞かなくていいのだと思ったからか、気が抜けたように体から力が抜ける。そのせいかポロッと涙がこぼれた。そんな僕を抱きしめてくれた康孝さんの胸で、僕は声を押し殺しながらしばらく泣いた。

 それから十日後、僕は不動家の離れに引っ越した。鞄一つだけ手にした僕に父は何も言わなかった。母は少し寂しそうな顔をしたものの、父に遠慮しているのか言葉はない。兄たちは相変わらずで、僕よりも僕が結婚したことでの利点が気になっているようだった。


(これからは康孝さんのことだけ考えよう)


 僕を選んでくれた康孝さんのために生きていきたい。少なくとも康孝さんに恥をかかせるようなことだけはするまい。そう決意し、迎えの車に乗った。

 不動家に到着すると、使用人の男性が「こちらでございます」と庭に案内してくれた。母屋に寄らなくていいのか不安になったものの、「こちらにご案内するように申しつかっております」と言われ、おとなしく付いていく。そうしてこぢんまりとした趣のある家に入り、教えてもらった居間へと向かった。

 トントンとドアを叩き、そっと開ける。部屋の中には普段着姿の康孝さんが立っていた。


「いらっしゃい、珠希くん。そしておかえり」

「……ただいま帰りました、康孝さん」


 初めて入った家なのに「ただいま」なんておこがましいと思いながら、そう言えることが嬉しくて仕方がなかった。一年あまり結婚を延ばしてきた僕は、こうして不動康孝さんの伴侶になる未来へ一歩踏み出した。

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