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「あの、康孝さん、」
「大丈夫、きみが嫌がることはしない。それにうなじも噛まないから」
「……っ」
うなじと言われてドキッとした。シャツのボタンを片手で器用に外す康孝さんを押し留めようとしていた手が一瞬だけ止まる。そんな僕に康孝さんは「噛むのは結婚してからにしよう」と囁き、うなじを覆うΩ専用の首飾りをするりと撫でた。
「んっ」
鼻にかかった甘い声に驚いたのは僕のほうだった。慌てて唇を噛むと、「腰に来る声だね」と言いながら康孝さんの手が再びシャツのボタンを外そうと動く。
「やっぱり、だめです」
「本当に? 本当に駄目ならやめるよ?」
手を止めた康孝さんが僕をじっと見ている。あまりに熱っぽい視線に耐えられず、そっと顔を背けた。
「わたしがどれだけ珠希くんを想っているか伝えたいんだ。どれだけ我慢してきたかを含めてね。わたしがどれだけきみを求めているのか珠希くんにも知ってほしい。……こんなことを言うわたしを浅ましいやつだと軽蔑するかい?」
初めて聞く自信なさげな声に慌てて首を横に振った。僕が康孝さんを軽蔑することなんて絶対にない。
「……でも……」
「自信がない?」
言われてドキッとした。同時にストンと腑に落ちた。
許嫁になって一年、こういう関係になっていてもおかしくないのにそうならないことにどこかホッとしていた。婚前交渉は駄目だというのは昔の話で、婚約した段階でうなじを噛まれるΩも多い。それなのに僕はどうしてもそういう行為への抵抗感が拭えなかった。手を繋ぐのはよくても肌に触れられるのは怖い。それは康孝さんが相手でも同じだった。
こんなにも康孝さんが好きなのに、どうしてそう思うのだろう。その理由がようやくわかった気がした。
(……僕は自分に自信が持てない)
経験したことがないから怖いという理由も少なからずある。でも、それよりも「全部知られて幻滅されたらどうしよう」という気持ちのほうがはるかに強かった。
家族の中で役立たずなのは僕だけで、Ωとしても凡庸な自分がずっと嫌だった。そんな僕を康孝さんが選んだとはどうしても思えない。こうして言葉で伝えてもらっても信じ切れない自分がいる。
すべてをさらけ出すのが怖い。このまま先に進んだら、きっと幻滅されてしまう。
(それに……僕の体はきっと具合がよくないだろうし)
以前パーティで耳にした言葉を思い出し、康孝さんの腕を掴む手に力が入った。
Ωは通常、三カ月から四カ月に一度発情する。そのときαを惹きつける魅力的な香りが出ると言われていた。でも、僕の香りはとても弱かった。初めての発情でそのことに気づいた母は眉をひそめ、父は落胆した。兄たちは「ただでさえΩでみっともないのに、発情すら満足にできないのか」と口にした。
Ωは相手がαでもそうでなくても具合がいいと言われている。でも、香りすら満足に発することがない僕の体の具合がいいとはどうしても思えなかった。僕に触れ、そのことに康孝さんが気づけばきっと婚約を早まったと後悔するだろう。αとΩでもっとも大事なのは交わって子を作ることだ。そのためには交わりたいと思わせる体でなくてならない。後継ぎを生むのが使命と言っていい華族のΩなら誰もがそうありたいと願っている。
(それなのに僕の体はきっと……)
康孝さんに幻滅されるのが怖い。このまま行為を進めるのが怖い。
「珠希くん、わたしの香りを嗅いでみて」
「え……?」
「ゆっくりでいいから、嗅いでみて」
もしかして康孝さんのαの香りを、ということだろうか。
(αの香り……どうしよう)
両親や兄たちの香りを嗅いだことはあるけれど、いい香りだと思ったことは一度もなかった。パーティ会場で無理やり嗅がされたときも吐き気しかしなかった。それ以来、αの香りというだけで胸がつかえるようになってしまった。
康孝さんの香りを嗅いで気分が悪くなったらどうしよう。αの香りを苦手に思うΩなんて笑い話にもならない。そう思うと怖くて仕方がないのに、康孝さんの香りを嗅げるのだと思うと胸が高鳴った。嗅いでみたいという欲に負けて、そっと息を吸う。
(……少し甘くて……でもすっきりしている)
おそるおそる嗅いだ香りは想像していたものと全然違っていた。もう一度吸うと、より甘さを感じて舌がじわっと湿る。先ほどかじったジャム付きのクッキーよりもずっと甘い香りだ。
(はじめは花のような香りで……でもその中に洋菓子のような甘さも感じる)
なんともいえない芳しい香りにうっとりと目を閉じる。
「この香りは好きかい?」
「はい」
「それじゃあ、もっと嗅いでみて」
言われるままに深く息を吸った。鼻から入ってくる香りが胸を満たし、それが少しずつ広がって頭の中まで満たしていく。気がつけば体中に甘い香りが広がっていた。内側から香りに満たされているのが心地よくてふわふわした気分になる。元日に唇を濡らすだけの御神酒の香りに酔ってしまったときとよく似ていた。
「この香り、好きです」
「よかった。それに……うん、珠希くんの香りも少し強くなっている。わたしたちは香りの相性がいいんだろうね」
目を開けると康孝さんの微笑む顔がすぐ近くにあった。ドキッとしながら「香りの相性、ですか?」と尋ねる。
「αとΩにとっては大事なことだよ」
「大事なこと……」
「そう、大事なことだ。それに香りの相性がいいと体の相性もいいと言うからね」
「からだの、あいしょう」
駄目だ、頭がぼんやりして康孝さんの言葉がうまく聞き取れない。甘い香りに酔ってしまったのかもしれない。それでも康孝さんの香りを嗅がずにはいられなかった。
すぅっと吸い込むと体がポカポカしてくる。体の奥がじんわり温かくなり、それが手足の先まで広がるようだった。
「あ、」
急に首のあたりが熱くなった気がした。まるで高熱を出したときのように目が潤んで景色が滲み始める。そんな僕に康孝さんは「さぁ、もっと嗅いでみて」と言いながらうなじを撫でた。首飾りの上からだというのに肌が粟立つ。
「んっ」
くすぐったいような、それでいてむず痒いような奇妙な感覚に体が震えた。何度もうなじを撫でる康孝さんの右手を止めたくて左手で掴もうとする。指先が手の甲に触れたけれど、するりと落ちて掴むことができない。もう一度と、今度は指を掴もうとして失敗した。
片手では駄目だと思い、右手も伸ばして手首のあたりを掴んだ。そうして左手を差し込むようにして康孝さんの手と指を絡める。そうやって両手で押し留めようとしているのに、それでも康孝さんの手は止まらなかった。指を絡めたまま首飾りを撫でられ、「ぁっ」と声が漏れる。
「やっぱり珠希くんの声は腰に来るね」
「んっ」
「指を絡めたままうなじを撫でることになるとは思わなかったけど、これはこれでなかなか」
「んふ、」
「このままほかも撫でてみようか」
指を絡めた康孝さんの手がゆっくりと移動し始めた。うなじに触れていた自分の手が首筋に触れ、「ふぁ」と声が漏れる。
「あっ」
半分ほどボタンが外れていたからか、手が触れてシャツが肩からすべり落ちるのがわかった。首筋から首の付け根へと手が動き、顕わになった肩を撫でられて腕が震える。
「んっ」
今度は鎖骨を撫でられた。肌が擦れる感触に絡めた指まで震え出す。
「あぅ」
次に触れたのは僕の胸だった。康孝さんの手だけでなく僕の手も一緒に胸を擦っている。まるで康孝さんの手を僕が動かしているように思えて顔がカッと熱くなった。
「だめ、です」
「本当に?」
頷こうとした頭が動かない。これ以上は恥ずかしくてたまらないのに、心のどこかで「もっと」と思っている自分に気がついた。
「珠希くんの香りが少しずつ濃くなっている」
「康孝さん、」
素肌の上を僕と康孝さんの手が撫でるように動く。顔も首も熱くてたまらない。これ以上撫でさせないようにと背中を丸めて康孝さんの手を握り締めた。でも、そのくらいでは止めることができない。
「あぅっ」
胸を擦る感触にピリリとしたものが走り抜けた。それに刺激されたのか下腹部がジクジクし始める。まるで発情しているような熱を感じ、僕は目を回した。
(発情はこの前終わったばかりなのに)
でも、この感覚は発情によく似ている。もしかしたら下着を汚してしまったかもしれない。
(こんなの……恥ずかしい)
いつもこんな体なのかと思われたらどうしよう。淫乱なΩだと蔑まされるに違いない。
「だめ、です、」
これ以上みっともない姿を見られたくなくて、必死に康孝さんの手を止めようと握り締めた。両手でぎゅうぎゅうと握っていると、「かわいい」と言って頬に口づけられる。
(僕が、かわいい……?)
そんなことを言われたのは初めてだ。家族の誰からも言われたことがない。僕は康孝さんの手を握り締めたまま顔を上げ、ぽかんとした。